ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

自文化に対する矜恃と礼節

1.昨日の夕刊で、キャロライン・ケネディ大使が長崎の原爆投下地(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)などを訪れたという記事を読んだ。アメリカ国内の二分化した政治対立がどうであれ、少なくとも選挙民ではない日本側としては、共和党であれ民主党であれ、どの大使をも丁重に歓迎するのは礼儀である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131124)。そして、この先、米国側にどのような意図があるにせよ、少なくとも広島と長崎という世界でも象徴的な日本の地を公式に訪問されたことで、被害者とその遺族の心がほぐれ、第二次世界大戦に基づく関係が改善される方向に結びつくならば、望ましいことではないだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)。
オバマ氏批判からキャロライン氏の大使任命を云々するのではなく、ケネディ家がカトリックの家系だということも想起すべきだと思う。カトリックのミサでは、毎年、広島や長崎の原爆投下日に祈られていると聞く。だからこそ、犬養道子氏の『お嬢さん放浪記』にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090317)、戦後直後に米国に渡った際、原爆投下に反対姿勢を有したカトリックアメリカ人やシスター達から、親切に面倒を見てもらったエピソードが綴られているのだ。また、最近読み終わった櫻井よしこ氏の自叙伝にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131025)、ハワイ留学中、「真珠湾攻撃をどう思うか」と現地のアメリカ人から尋ねられたという記述が見出された。
このように、アメリカ人と一口にいっても、リベラル・保守・インデペンデントを問わず、国の公式見解としては謝罪があり得ないとしても、個人レベルでは原爆投下に対する批判や敗戦国の日本人や原爆犠牲者に対する同情(?)があったことは、20代の学生の頃から今まで知らなかったわけではない。

2.私自身は、あの戦争に突入せざるを得なくなった経緯を、日米双方の立場からもっと詳しく、学術結果に基づいて公平に客観的に知りたいという立場である。いかなる理由であれ、当時の日本の指導者層が誤った道へと導いたことに対して痛恨の念がある。だから、戦争回避の努力が最後まで続けられたという話をもっと知りたいと願い、南進政策でマラヤ(シンガポール)占領と日本軍による華人虐殺行為や強制労働などへと突き進んだ経緯については、本当に間違っていたと思っている。私自身は、日本人だということでマレーシアで戦時中のことを吹っ掛けられて不愉快な思いをしたことはほとんどないが、あれがなければ、もっとアジア関係がスムーズで楽だったはずだと常に残念に思ってきた。同時に、「戦後の日本人はこんなに優しいのに、どうしてあの時代の日本兵は横暴だったのか」という述懐も聞かされたことがあり、それについては決して忘却が許されないとも肝に銘じている。
一方、マラヤとシンガポールその他のアジア地域の人々が、本当に当時と戦後から現在にかけての日本をしっかりと深く理解しているかどうかについては、難なしとはしない。どうしても、経済利便や表面的な大衆文化レベルの接触で終わってしまいがちだからだ。それは、差別でも偏見でもなく、理解したくない、理解できない、理解の必要がないというのであれば、こちらとしては強制するつもりはないし、そこまで。しかし、だからといって対等や平等を求めてもらっても困るというだけなのだ。また、シンガポールが学力水準や技術力や経済力などで日本を抜いたと自慢してみても、人口の大きさと政策のあり方が異なる上、移民国家ではない日本と頭脳移民を選抜して受け入れているシンガポールを単純比較するのが誤りだということぐらいは、誰でもわかる。従って、国のイメージとしてはシンガポールに華を持ってもらうとしても、つい数十年前までのシンガポールは実際どうだったのか、という謙虚さも併せて兼ね備えたいものである。

3.中国と韓国については、政治社会面で緊張が続いているが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131109)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131125)、その中においても、古代からの交流を常に想起し、良き隣人でありたいと願っている。しかし、良き隣人とは、必ずしも同化や一緒に行動することを含まず、不当に軋轢があるならば、距離を置いて静観するのも一つの方法ではある。それぞれの民族性や感情の違いを知っておくことは必要だが、日本には日本の立場があり、違いの存在を認め合うことが肝要であると考える。

4.TPPでは、相変わらず米国と日本その他の軋轢や対立がある。経済交流とはいえ、国益国益がぶつかるのはやむを得ない。全力を挙げて日本の国益を長期的視野からも守っていただきたく、そのために賢明な交渉を望むものである。そして、米国が日本を従わせようとしても、事情を無視して圧力をかけ得ないことが判明したならば、別の道を模索するしかない。一方、国と国レベルの交渉ではぶつかっても、人間同士の交流というものは、国境を越えた面があり、そのような草の根レベルの関係は大切に維持すべきであると思う。

5.日本文化に対する理解というのは、何もクールジャパンやアニメやマンガなどの日本発の大衆文化を指すのではない。別に、無理に理解したくもない人に押しつける意図は毛頭ないが、私のイメージする日本文化とは、「古代からの天皇制、万葉集、平安女流文学、雅楽、和歌、武士道、禅、茶道、水墨画、庭園、武道(剣道、弓道など)、わび、さび、もののあわれ、漢意でないもの、陶芸」などを指す。これが本流の日本文化なのであって、我々が誇りを抱き、外国人にも理解していただきたいのは、まずはその範疇だ。それ以外は、いわゆる慣習や生活様式といった類いである。
申し訳ないが、私は国文専攻出身者である。古代から戦前までの日本語の成り立ちと文学を一通り、読んできたのだ。それによって、日本に生まれた日本人として、責任を持って具体的に、自分なりに自分の国を考えたかったのだ。例えば、和食がユネスコに登録されたなどというニュースを読んだが、これこそ無礼失礼の最たるものである。分かっていない人が勝手に決めたものだ。また、ノーベル賞やオリンピックのメダル数は、あればうれしいが、非西洋諸国で人口もたかだが1億2千万ほどしかいないのだから、少ないといえば少なく、今後も努力目標だという点では変化はない。

6.自文化を理解していただくことは必要だが、中途半端で表面的な「理解」ならば、無理にしなくても結構である。結構どころか、摩擦と誤解を無用に生み、危険でさえある。少数でも高度で深くて正確な理解が重要なのであって、便宜上、戦略上の行為は当事者にすぐに見透かされてしまう。その意味で、どの文化に対しても敬意を払うのは当然の礼節である。しかし、先方に誤解があれば正すのも必要であり、当方の努力不足を恥じるべきでもある。そして、社会秩序を外部から破壊する行為は断罪されるべきである。

7.イスラーム問題については、基本的に西洋世界との対峙であり、日本が関与する場は実は限られている。双方の立場を深く正確に理解するよう努め、最新の情報収集に尽力すべきなのは当然であるが、だからといって「架け橋になる」などと無謀な試みは控えた方が賢明である。後ろに静かに控えて、要請があれば側面からの協力を惜しまない程度が望ましいのではないだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131018)。そのためには、相当の知的努力が必要で、日本など存在しないかのような一神教と世界史を血を流す思いで学び続ける覚悟が重要だ。理想は、黙っているものの、一定水準以上の必要な文献も研究も常備されている日本であること。言うまでもなく、上記に示した日本文化の素養は、当然の常識である。

8.結論として、常に他者から学び続け、良好な関係を保つ努力が大切だということなのだ。それは、一方通行ではあり得ない。本音がどうであれ、好むと好まざるとに関わらず、現代は相互依存の時代、双方の流れが不可欠なのだ。