ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

無知が傲慢を招く

昨年12月にマレーシアを3年ぶりに訪れてみて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)、首都圏の驚異的な経済発展に目を見張らされたことは予想通りでしたが、一部の人々の日本を見下すかのような態度には、驚かされました。
多分、民主党政権のもたつきが、外部メディアによって悪意的に伝えられたことも影響しているのかもしれませんし、インターネットなどの普及と安価な海外旅行の利便性によって「自信が出てきた」ことの証左かもしれません。また、中国の経済発展のめざましさと、尖閣諸島などの国境を巡る紛争などから、想像するに日本を小馬鹿にし始めたのでしょう。
自信をつけるのはいいのですが、戦後、経済、技術、教育援助と、マレーシアの安定した発展にかなり関与した日本に対する見下しと傲慢さにつながっては、台無しです。
ある時、廣淵升彦氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130207)がおっしゃっていました。「だいたい、日本や日本人を嫌う国や人っていうのは、世界でも嫌われているんだ」。時々、このように肯定的な自尊心を心の内に蓄えておかないと、世知辛い世の中では、やられてしまいかねません。
例えば、マレーシアでの会話には、こんなトンチンカンな話が飛び出してきました。英国有数の大学で神学博士号を授与されている広東系華人です。
先の民主党政権の頃、東南アジアの観光客をターゲットに、日本の経済活性の一助としようという政策から、比較的安価な旅費に下げて日本に観光に来られるルートができました。ということぐらいは、私でも新聞を読んで知っている常識でしたが、当地では、このような会話になるのです。
「来年、東京に行くんだ。東京に行ったこと、あるか?」
私「もちろん、数え切れないほどあります」
「東京では、どこに泊まるのか?」
私「あまり東京が好きではないので、用が済んだら日帰りということもあります」
「それは、東京に泊まれないほど経済的に困窮しているからなのか?」
私「いえ、東京に行くことは、私達地元人にとって、何らステータスでもないのです。だから、用が済み次第、すぐに新幹線に乗って帰ってきます」
「つまり、お金がなくて長居できないってことだな?」
私「そういう意味じゃありません。日本には、他にも訪れる場所がたくさんあります」
「じゃ、富士山や北海道に行ったことはあるか?」
私「まだありません」
「ほら見ろ、やっぱり経済的に困っているから余裕がないんだな?」
私「ローカル人間は、外国人が行くような有名な観光地には行かないんです。もっと静かで、外国人が行かないような場所が穴場なんですよ」
「つまり、お金に困っているからだな?」
私「あのう、20年ぐらい前までは、『日本人は内向きで島国根性だ』とか『日本は嫌いだ』とあれほど繰り返しておきながら、どうして今頃になって突然、『東京に行きたい』『日本に行く』など、自慢げになってきたのですか?」
「それはね、観光パンフレットを見ると、日本のきれいな場所の写真が掲載されていて、(あ、行ってみたいな)と思うじゃない?で、お金を貯めて行くの」
私「だけど、こうやって私だって、マレーシアに来ているじゃないですか?生活に困っていたら、二週間も来られませんよ。それに、昨年にはフランスにも行きましたし、どうして東京程度で、そんな判断になるんですか?東京へは、中学の修学旅行で行ったぐらいですが...」
そこまではっきりと事実を伝えて初めて、会話の相手が(は!)とした表情になり、目が覚めて「会ってみると、メールだけのやり取りとは全く印象が違うね」と落ち着くわけです。私に言わせれば、(勝手に井の中の蛙になっているのはどちら?)なのですが...。
国際関係の専門的な論文に時々は目を通しておかなければ、どの国と日本が友好関係を長期にわたって結んでいるかわからなくなってきます。日本がどれほど円借款などで他国に多額の援助を続けてきたかを客観的に知っておくことは、上記のような話にならない話で不愉快になる時の武器になります。
逆を考えたらわかりますよね?例えば私がもし、西洋先進諸国の人々に向かって、「パリに行ったことありますか?」「行けないほど、お金がないんですか?」と一言でも口走ったとしたら、恐らくは相手にもしてもらえないでしょう。なぜならば、一見質素な服装をしているような堅実な中流層の人々が、どれほど本を読み、専門知識も高くて、歴史感覚も抜群で国際情勢にも鋭く、言語も幾つかできてもそれを誇示しないか、安定した文化的に豊かな暮らしを営んでいるか、ということを少しでも知るならば、馬鹿を見るのはこちらだからです。
では、なぜ白人には言わないであろうことを、日本女性の私には平気で言えるのか?気安さからかもしれませんが、やはり、無知が傲慢を生んでいる面も否めないのではないでしょうか。マレーシア人同士でも、そういう会話になるでしょうか。
「クアラルンプール、行ったことあるか?」「お金がなくて首都まで行けないのか?」
いえ、実はそういう人々だって今も存在すると思います。しかし、正面切ってそのような言葉を口にすること自体、何よりも無教養で失礼というものです。

その際、普段からちょっとしたエピソードを溜めておくことも、必要な助けとなります。
例えば、昨日の朝日新聞夕刊に掲載された「人生の贈りもの」と題するコラムの、元衆議院議員園田天光光氏(94歳)の経験談が貴重だと思いました。
国際児童年の1979年、世界100ヶ国の大使夫人に市松人形の「大和太郎」「大和花子」計200体を贈られたのだそうです。それに対する返礼が117体の人形で届いたのですが、イスラエルが一番先に返礼を寄こされたとの由。中東戦争の頃で、一番最後に日本から人形を届けたのに、真っ先にお礼が来たということだそうです。「私たちがいかに平和を願っているか分かって下さい」と。
このようなエピソードは、左派右派あるいは中道など関係なしに、大切にすべき逸話だと思われます。