ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人間存在の捉え方の様相

到着した4月7日のニューヨーク市は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)、小雨の降りしきる、日本ならば3月上旬か12月ぐらいの関西地方に近い天候。ジョン・F・ケネディ国際空港に降り立ち、市内のホテルに向かう頃には、雨が相当に激しく降り始めた。十代後半から慣れてはいるとは言え、どこの国に行っても、国境(時差)を越えるとは実に疲れるもの。気候の変動に備えて、冬服やら春物やら詰め込んだ、何冊かの本や資料つきの荷物もあった上、見る物聞く物全てが初めてだ。ところが、経験を積むとは感動の薄れをも意味するのか、(これが、皆が憧れるニューヨークかぁ....)と醒めた心境だった。
要するに、人種の坩堝と言えば聞こえはいいが、いろんな人達がごちゃごちゃ寄せ集まっている感じなのだ。マレーシアやシンガポールのような準移民国で長年鍛えられたとはいえ、結局のところは、エスニック集団と社会階層が相互左右に交錯し、少しでもより良い社会上昇を求めて競い合い、張り合っている場である。均質度の高い日本で、最終的には調和を探り求めてまとまろうとする社会に生まれ育ち、慣れ親しんでいる者にとっては、動物的な生存競争を優雅に繰り広げるえげつなさに閉口する年齢に差し掛かってしまったのも、いわばやむを得ない。
「荷物があるんだから、疲れては意味がない。お金のことは気にしなくていいから、タクシーで行きなさい。リムジンを予約してあげてもいい」と、そこは慣れている主人。「ニューヨークって好きじゃない。臭いだけのとこじゃないか」と、これまた憧れている人々には失礼極まりない直言を平気で。
それはそうなのだ。日本だって、東京なり大阪なり京都なり、出身地の名古屋だって、大都市ということにはなっているが、実は私、数え切れないほど行っていても、一部しか知らない。東京でも、いわゆる下町は知らない。浅草などは行ったことがないし、あまり行きたいとは思わない。代々江戸っ子だという人達とならば知り合いたいとは思うが、地方出身者の集まりである東京は、用事が済めばさっさと帰ってきたい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070804)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080314)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130209)。大阪も京都も、中央から北部が中心だ。名古屋だって、実は知らないし、まだ行ったこともないところがたくさんある。居住地は親の選択だったとは言え、家から出て行く場は、常に中央から東が活動範囲だった。
これはやむを得ないのではないだろうか。私に親しみを込める意味で、時々外国人が「大阪に行ったことがある」と言ってくれるが、気持ちはありがたいものの、それ以上に話は発展しない。なぜならば、大阪言葉など今でも話せないし、無理に話そうとも思っていないからだ。かえって、地元の生粋の大阪人に失礼だとも思う。大阪はあくまで大阪らしくあって欲しい。

さて、だからこそ世界的に著名なニューヨークも、お上りさん感覚はまるでなし。1987年3月にロンドンにホームステイした時も、そうだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080624)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091218)。2011年2月にパリに行った時もそうだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110329)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110510)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111006)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130323)。確かに、世界史の現場に足を下ろしたという感動や、個別の経験からくる感興はあるのだが、(国際舞台の大都市って、小汚い...)というのが第一印象。恐らくは、ニューヨークのごく一部のみが、超優秀な人材が集まって、各分野で世界を動かす頂点なのだろう。
次回訪問するならば、博物館巡りや美術館巡り、そして私的公的会合などで、ということになろうか。ただの気楽な観光にはまるで向かないし、そんな暇は持ち合わせていないのだ。

実はこの感覚、「もう500回以上、ニューヨークに来ているけど、ニューヨークは好きじゃない」とつぶやいた今回のご招待者の言と、もしかしたらどこかで重なる点があるかもしれない。もっとも、地元人としての感覚と、外来人としての一時訪問者としての感覚には、前提として大きな相違があることは言うまでもない。いろいろな刺激があっておもしろい、ということはよく聞くのだが、(だからこそ、芸術家達がこぞって住みたがるのであろうが)、後で記すことになるであろう、ハートフォードで調べたほぼ一世紀以上前の古い一次資料に出てくるニューヨークとは、想像する限り、現在ではおよそ雲泥の差の姿なのだ。

ただし、アメリカの良さは、内実は何がともあれ、少なくとも表向きの社会規範としては、皆が大手を広げて新来の外来者を温かく受け入れてくれる懐の深さだ。初対面であろうと、アジア系であろうと、英語に外国人なまりがあろうと、とにかく受け入れる。2010年9月のESTA導入で入国基準に締めがかかったとはいえ、9.11前後の不法移民流入を考えれば、やむを得ない措置であろう。それに、日本国はありがたい。14ドルで済んでしまう。これもまた後に記すことになるイェールでの経験に拠れば、マレーシア人の場合、一人100ドルだとの由。1990年初め以来、マレーシアの首都圏で、英語で教育を受けた人達から、小鼻の穴を大きくしたり小さくしたりしながら「うちの子ども(姪・甥・従兄弟・親戚など係累)がアメリカの大学で勉強している」と自慢げに聞かされる経験に嫌ほど遭遇してきたが、要するに何のことはない、アメリカ合衆国の偉い方達から見れば、国の位相が最初から異なるのだ。つまり、「日本国籍者なら14ドル(一回のランチ程度)でお越しください。マレーシアから来るなら、一人100ドル(リンギットもといマレーシア・ドルではない)払えるだけの金銭的余裕のある人を」と区分けしているという意味だ。しかも、クレジットカード払いである。出身国できちんと職に就き、生計を堅実に営み、身元のしっかりした人でないと困るというフィルタリングなのだ。
金美玲さんが、「日本人は、自分の国のパスポートがどれほど国際的に信用されているか、わかっていない」と苦言を述べられていたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131216)、確かにその通りなのだろう。もっとも、14ドルも払わなくても自由に入国できた前回の渡米経験が懐かしい。入国審査も、シカゴのオヘア空港に降り立った前回は、確か一本指の指紋検査のみ。しかも、「ファミリー?」と尋ねられただけで済んだ。ふと目に飛び込んできた「セキュリティはタイトに、でも大手を広げて人々を迎え入れよう」という意味の標語には、感慨深いものがあった。しかし、あれから9年。現実は現実だ。先人および同胞の日々の誠実な尽力に連ならせていただける日本人の一員であることのありがたみを、とくと心に染み込ませて、絶対に国の信用を裏切ることのないように、普段の日常生活から真剣でありたい。その点で、気楽にアメリカ留学や、先の破綻が目に見えている不釣り合い国際結婚を考えている若者層がいるとしたら、あなたの身勝手な行為一つで他の日本人全体に迷惑がかかる可能性があることを、是非とも覚えておいていただきたい。(STAP細胞事件は、だから深刻なのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140315)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140404)。)

今回のニューヨークでの入国審査は、まず右手の親指、そして四本指を機械に載せ、次に左手の親指、そして四本指を機械に載せ、それからパスポート写真と実物の(疲れ切って化粧のはげ落ちた)顔とのじろじろ照合の後、改めて顔写真撮影となった。それだけの手続きなのだが、どうやら日本政府は異議申し立てを試みているらしい。「同盟国日本の国民を信用しないのか」という意思表示であろう。しかし、決めるのはあくまで先方である。日本からも、国際テロに直接間接に従事するいかがわしいイスラミストや、戦闘的コミュニストや、変な政治宗教的なイデオロギー信念の持ち主が出ていることは確かだ(http://www.moj.go.jp/content/000117998.pdf)。安全確保のために、念には念を入れて入り口で厳しく調べておくのは、むしろその国のしっかり度を示しているようで、私には心地よい。つまりは、性悪説に依拠している私ということだ。人間ほど、頼りなく、信用ならない存在はない。いつ何時、豹変するかわかったもんじゃない。
それに、昔、緒方貞子先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120420)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120618)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120916)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131210)がテレビでおっしゃっていた「そういう人達も入って来ちゃうのよね」というのが現実なのだ。日本だって、特にもっと入国を厳しく精度を上げて欲しいと私は願っている。経済活性化のために、ビザまで撤廃してアジア諸国から緩く人々を受け入れるようになった昨今であるが、当然のことながら、繁栄して安定して豊かな国には、よからぬ下心を抱いて入国する人々が混じるのは古今東西の倣い。だから、色仕掛けのスパイ行為もさることながら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131105)、留学ついでに結婚願望も兼ね備えて、ウブな日本人に近づいて甘い汁を吸おうとする人々が増えることには、用心に用心を重ねなければならない。そういう悲劇は、実はパキスタンなどムスリム諸国との関連で多い。何年も前から定期的に覗いてはいたが、そのような日本女性ムスリム被害者の会ごときサイトもあるぐらいだ。
とすれば、マレーシアだって、9.11首謀者の秘密会合が持たれた場を提供した国であり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130924)、ナジブ首相がハマス支配下のガザを公然と訪問するぐらいなのだから(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100926)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130123)、ESTA申請の際、まずは金銭的に一定の社会階層を提示してくるのは、やむを得ない措置であろう。そこを、日本のマレーシア研究者はしっかりと見つめるべきなのだ。大衆映画などをのんびり見せている場合じゃない。いや、それとて、何らかのカモフラージュなのかもしれない、と以前からうすうす感じてはいた。

さて、そんなこんなで単独到着したニューヨーク市の翌日たる4月8日に話は移る(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)。具体的には、昨日の続きだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)。

ペンシルヴェニア倶楽部の荘重な雰囲気の中、五月雨式に食事が始まった。相変わらず、もごもごとしていた私だったが、つまるところ、左側の(もちろん上席に)主催者、その真隣の隅っこに(指示通りに)私が座り、その右隣に、主催者の組織の理事に名を連ねている、外見からしてもお名前からしてもユダヤ系と一目瞭然の男性が座られた。(今から思い起こせば、ご招待者が「私の隣に座りなさい」と言ってくださらなかったら、本当にどこに席を占めて良いのかわからなかった。)
それに、「どこに座ってもいいんだよ」というのは、この場における社交形式でもあり実でもあったのだが、それぞれに勝手に座り、お料理をさっさと食べ始める姿にはびっくりした。「食べなさい、どうぞ」と右隣の理事のおじさまに声をかけられ、「あの、お祈り(grace)は?」と、日頃の実践不備は横に置き、一応は遠来の珍客たる東洋人として、とりあえずアメリカ風の公式お作法を尊重するべく、おずおずと尋ねてみた。「あぁ、それはいい習慣だけどね、ここではお祈りなしでも食べていいんだよ」と、あくまで温かく世俗派ユダヤ系紳士という感じ。一応は、そんなこともあろうかと思い、朝食は抜いて、日本から持参したティーバッグの即席緑茶と飴玉だけで準備してきたのだ。ところが、グラスの水を飲みながら、本当に葉っぱのようなサラダを突っつくだけで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)、すべてが終わってしまったのが実のところ。開始前に、「コーシェル、コーシェル、コーシェル」と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)、わざわざお皿を覗き込みながら声に出して数えていたご招待者の姿に、(お魚料理、おいしそう...)と思いつつも、結局はそのままになったのは、返す返すも残念である。
つまりはこういうことなのだ。後で説明をいただいたことによれば、このランチョンに集まられた十数名の方々は、それぞれに資金提供者であるが、「お互いを知らない」。全てを把握しているのは、主催者と理事のみ。業務の性質上、半年に一度は資金提供の呼びかけがメーリングリストであるが、透明性や公正さの確保でもあろうか、実際の寄与者同士が相互に顔合わせする機会を、このように各地で定期的に提供されているようだ。「そうすれば、自分達が何をしているか、お互いにわかるからね」。「ネットワーク作りですね?」と私。だからこそ、西海岸から東海岸のあちこち、そして南部を時々出張されていたのだろう。大変ではあるが、一度軌道に乗せて慣れてくれば、それほど困難な仕事でもなかろう。信頼性の保持がとにかく肝心要だ。
右隣の理事のおじさまは、私の今回の渡米が、当該組織の記念行事に出席するためだけなのかどうかを尋ねられた。それはそうだろう、「遙々遠く日本から」と、どこでも修飾詞がついて回ったご紹介である。私にとっては、主催者の方こそ、フランスだの、イスラエルだの、ニュージーランドやオーストラリアだの、カナダだの、その他の欧州各地(スペイン、ドイツ、ポーランドギリシャアルバニアなど)もさることながら、果ては、トルコだの、突然のエジプトだの、(ついでに日本も)、中南米やアフリカや中国大陸を除いた地球全部があたかも我が別荘地の庭、自宅の席を温める暇もなく、忙しく飛び回る活発な移動人生なのだ。かたや一定の土地に先祖代々定住するのが当然だった農耕民族の子孫たる私。(どうしてそんなに飛行機に乗っていられるんですか?)と、機内でのつんざくような耳の不快さと空気の悪さに耐えつつ、時折の旅行を(やむを得ず)こなしてきたという対称性なのだ。
「遙か遠く」ったって、たかが日本じゃないですか?昨今の中国や韓国との熾烈かつ執拗な言論闘争を瞥見の限り、地理的距離は必ずしも文化的距離を意味しない。計四年間も住み込み、今も時折は訪問するばかりか、毎日のように情報に接しているマレーシアからの帰国疲れと、今回のアメリカ帰りの疲労感とでは、全く質的に大きな相違があるということ自体、雄弁な立証だ。つまり、アメリカは表層的な文化の異なりにも関わらず、「日本と近い」。従って、このご挨拶は、あくまで飛行時間や時差からくる地理的距離を「遙々」と形容しているに過ぎないと、私は勝手に理解する。
閑話休題。そもそも、突如のお招きも機をねらってということだった。人生には、タイミングというものがある。何事も、バタバタ早く早くと、急ぐばかりが能率のよさでも充実度でもない。9年前に終わらなかった一次資料の文献収集目的と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071023)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071112)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080414)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080417)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111217)、今回のお誘いをドッキングさせたのだ。ちょうど、義母とも3月のお彼岸に会って喜んでもらえた後だったし、主人は最初から前向きだったし、行けるうちに用事をまとめて、といったところだった。
理事のおじさまは「それはおもしろい研究テーマだね」と、即座に話を合わせてくださった。この点も、繰り返しになって恐縮であるが、日本の学会の一部の雰囲気とは全く対照的である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)。「ね、彼女の研究、おもしろいよね?」と主催者にまで話を振り向けてくださったのはありがたい。さすが、シンクタンクとはいえ、実務と密接に関係しての業務である。霞を食べているかのような高等遊民の知的作業とは、質的に異なるのだ。「しかし、ニューヨークに初めて来て三日だけとは、そりゃ全然足りないよ。一人で来たのかい?それにしても、見るべき程のことをば見つ、には程遠いね」。「えぇ、それはそうなんですけど、でも今回は....」と口を濁しながら、こちらも社交会話を合わせる。
お隣のおじさまは、さすがに理事を務めていらっしゃるだけあって、「これから彼が、こういう話をする。中東情勢の各論および総括だ。アフガニスタンの話も出るかもしれない。その後は、質疑応答だ」と、ナイフとフォーク(と口)を忙しく動かしながら、テキパキ案内してくださった。このテンポと手際の良さは、さすがにニューヨーク仕込みだ。心地よい。
気がつくと、ナイフとフォークがカシャカシャと音を立てるばかりになっていた。これも私には、実は覚えがある。以前の何本かの映像クリップから知っていたのだ。時折の講演会なのだが、昼食を兼ねて人々を招き、主催者や講演者は、あくまで水だけ飲むに徹しながら、司会および報告と現状分析の紹介に努める。その間、いつでもバックグラウンドに、いかにもスープの香りが漂ってきそうな、ナイフとフォークのカシャカシャ音が伴奏しているのだ。
早くもメインディッシュが終わり、ケーキをフォークで突っつく人まで目に入った。ところが私ときたら、主催者の梗概を拝聴しながらメモを取る作業に没頭しており、気がついたら、メインディッシュも下げられ、コーヒーが運ばれてきた次第。
とどのつまり、訳者の醍醐味で、集まった人々とほぼ同程度には、主催者の思考回路や話題の展開に充分ついていけた。メモを取っていたのは、今日のようなブログ記録に備えるためであって、内容がわからなかったわけではもちろんない。「ウェブを見てください」の一言で終わるのに、わざわざお話しなければならないのか、とあえて思ってしまうほど、普段、日本の小さく静かな町の片隅でパソコンを眺めている日々が、目の前で繰り返し具現化した感覚だった。
要するに一言でまとめると、あっけないほど「中東は依然、混沌として危険な場である」。しかしながら、「中東は今後、エネルギー供給地としては価値が下がっていくだろう」。そして、イスラーム過激派の動向については、「ムスリム世界では、現地の人々の間で認識が高まりつつあるため、今後の見通しは何とかなりそうだ。むしろ、現在の問題としては、西側世界でイスラミスト動向が頻発していることだ」と総括され、「ここ合衆国や欧州もそうだが、日本も」と、私の小さな存在をもわざわざ強調してくださった。つまりは、日々の根気強いインテリジェンス作業と文筆活動に加え、何事も実際の現象より一歩先取りした見解を提示して、世論に方向づけを働きかけているのだ。
そうなのだ。なぜ、ここまでに没頭できたかと言えば、そもそも、マレーシア関連で、私の経験してきたほぼ全てが、見事に主催者の組織が扱ってきた問題と不思議なほど重複するからなのだ。
「それほどまでに断言的(assertive)で、それほどまでに明快で、それほどまでに論理的であるご考察....それが、私が深く惹かれてきたものです」。その後の二人だけの会話で、率直に述べた私の告白である。「どうやったら、そういう風に、混沌とした諸現象を正確に見つめられるようになるのですか?」と問うと、ただ一言「読むことだね」。‘By reading’と、もう一度、繰り返された。たくさん読み、じっくりと考え、しっかりと観察することらしい。その積み重ねの表出が、あの大量の著述とクリアな分析に結びつくのだ。
さて、一通りの総括が終わったところで、一人ずつ順に簡単な自己紹介をぐるりと。その後、活発な質疑応答の時間となった。ここが一番、日本と違うところなのだが、どの自己紹介もテキパキ簡潔で、ダラダラとはた迷惑にも必要以上に話し続ける人など皆無であった。
どういう顔ぶれかと言えば、それこそアメリカらしく、さまざま。いかにも宗教派ユダヤ人らしい、キッパをかぶった落ち着いた物腰の初老のご夫婦、中東を教える際の教材として出合ったのが主催者の組織だという元高校教師の男性、主催者本人よりもむしろ、お父様(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)の共産主義問題の著述に、高校時代から「必須読本として」教育され、影響を受けてきたと述べた人(従って、そのご子息であれば、思想に信頼が置けるという含み)、テキサスから、それこそ遙々)来られたローラ夫人風のチャーミングなご婦人(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)(この女性とはかなり親しいらしく、お名前で気軽に呼び合っていた)、『エルサレム・ポスト』紙関連のイスラエル出身の男性(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)、「主催者の髪の毛がまだ黒々としていた頃からの知り合い」だと名乗る人、「若い頃、ユダヤ共同体のために活発に活動していた彼を知っている」と紹介する人、等々。イスラエル副大臣を務められているダニー・ダノン氏(http://www.danielpipes.org/13189/)(http://www.danielpipes.org/13242/)(http://www.danielpipes.org/14053/)の名前が飛び出したり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130408)(即座に、主催者が私を一瞬まなざした)、この頃はネタニヤフ首相の言動がどうも危なさそうだなど、まさに生きた国際政治の台風の目に居合わせたかのような、私にとっては身の程知らずの僥倖だった。
主催者のお父様の回想録を読んでもわかるが、ご本人と直属の家族はアメリカ人として暮らしていても、その親戚筋はイスラエルに渡って、イスラエル人として住み着いているなど、政治動向が、単にニュース報道ではなく、まさに血肉を分けた人々の暮らしに直結している。だから、日本のような一種別個の社会に生きる者が、中東専門家でもないのに、頼まれてもいないのに、したり顔で「中東和平」などを唱えたとしても、貸す耳、もとい、聞く耳を持たないのはやむを得ないことかもしれないと感じる。
どの程度の富裕層かは別としても、話し方や物腰から、いずれも教養層であることは確かであった。ウェブ上で通俗的な大衆向けのトピックを書き散らしているようでも、全て意図的な戦略上の手法としての著述である。まずはご自分が先導を切って、昔の論考文や最近のコラムなどで扱ってきた各種テーマを参列させ、時事問題と絡めて文章を短冊のように綴っていくやり方だ。後継者を育成する上でも、今では私と同世代の数名が、テーマの一つ一つを展開させている。初めは目がくらんだが、慣れてくると、あっけないほど単純な方法だ。しかし、軌道に乗せるまでがとにかく大変。まずは一つの分野を大量に読み、旅行の見聞と摺り合わせてあちらこちらに書きまくり、内向的な自分を叱咤しつつ、胸を張って勇んで表に出て行き、自ら世論形成すべく、精力的に働きかけてきたのだ。敵手となりそうな論客には、積極的に文筆で叩きまくり、討論会にも出て行って売り込み。しかも、飽きが来ないよう、常に人より一歩先を見越して、言論で誘導していく。
この点、日本は何かと甘ったるい。有力な先生についていたり、家系のバックが圧倒的に優勢であればともかく、私のように普通の家庭の出身では、何かと筋違いのことを言われて、平然と無視されるか、はじき飛ばされてしまう傾向にある。もちろん、はじき飛ばす側に相当の知的盲目の問題があるのだが、澱んだ昨今の日本の大学では、平気で台頭する輩が後を絶たない。
さて、私の自己紹介の番が最後に回ってきた。もちろん短く「日本から参りました○○と申します。この二年間、☆☆博士の著述の邦訳をして来ました」と、主催者をちらりと見やりながら、述べたまでである。ちらりの時、うなづいてくださったのは、ありがたかった。

ところが、困ったことに、その後の質疑応答の際、自分の見解を提出するよう、名指しで促されてしまったのだ。メールでごく短く、「僕からも指名するからね」と言われてはいたものの、現場に身を置くと、下準備しておいた程度では到底間に合わない。つまり、大変に申し訳ないが、日本の中東理解はそれほどまでに遅れているというのか、現状をよそに、途上国並みに内輪で勝手に自己流に盛り上がっている感覚だ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140306)。何かと、イスラエルを贔屓にする(とばかりも言えないのに)アメリカを叩き、判官贔屓よろしくパレスチナムスリム諸国に目配り(気配りではない!)するスタンスを取るのが、「弱者にまなざしを注ぐべき知識人の役割」(エドワード・サイードhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%A8%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%C9%A1%A6%A5%B5%A5%A4%A1%BC%A5%C9)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Edward+Said%22))の似非流行らしいのだ(http://lang-8.com/594882/journals/287610363615167251049761490463708126820)。
しかし、その隘路は初めから判然としている。大抵、左派は、一見人道的で高邁な理念であるように見せかけつつ、ありもしない理想ばかり蕩々と述べ立て、人生経験の乏しい若者を感化させ、挙げ句の果てには、知的精神的な自殺行為の道連れにしようとする。そもそも、傲慢にも「知識人」だの「学者」だのと、自ら高見に身を置くのが癪に障る。どんなに知性に恵まれた誰にとっても、人生とは、一つわかったと思った途端に、次の関門へと扉が永遠に開き続ける途上をテクテクと歩むことにあるのだ。仏教用語無量寿という。永遠なるものを求め続けるべく創造されているのが、我々人間の宿命なのだ。だからサイード派は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Saidian%22)、根本から誤っている。それに対して、若い頃から敢然と戦いを挑み(http://www.danielpipes.org/392/middle-eastern-studies-what-went-wrong)(http://www.danielpipes.org/11948/)(http://www.danielpipes.org/12050/)(http://www.danielpipes.org/12188/)(http://www.danielpipes.org/12220/)(http://www.danielpipes.org/12272/)(http://www.danielpipes.org/12488/)(http://www.danielpipes.org/13353/)(http://www.danielpipes.org/13355/)(http://www.danielpipes.org/14059/)、人生目標をこっぴどく妨害された挙げ句(http://www.danielpipes.org/blog/2003/06/someone-named-daniel-pipes)、恐らくは私生活にまで影響されてしまったらしいのが、この度お招きくださった主催者である。
一言でまとめれば、アメリカだからこそ立ち上げられ、立ち上げる必然性を有したシンクタンクだったと言えよう。そこに、いくら訳文を提出しているからとはいえ、安易に口を挟める筋合いはないのだ。両国の中東外交の力点の相違もある。だから、(え!)とびっくりして黙ったままの私を、十秒ほど待った後に、さっさと次に進めてくださったのは、本当にありがたいことであった。
結局のところ、人間存在をどのように捉え、いかにアプローチしていくかの哲学的課題でもある。日本はその点、私を筆頭に、全然駄目だ。環境が整っていないどころか、どんどん劣化の一途を辿っている。
さてさて、今後もしも同様の機会が二回目に訪れるとするならば、もう少しは何とか貢献できそうだ、とは考えている。
当初に予告されていた時間を数十分上回っていたが、何となく終了した後、主催者との個別のお話や、出席者相互の談話交流のセッションに入ったようである。この辺り、テレビ出演が多い割には、やはり控えめで内向的な学者性格が出ているというのか、それほどシャキッと区切りがあったり、楽しいジョークで締めたりという筋書きにはならなかった。
もちろん、遠来の珍客たる私、お邪魔にならないよう、密かに部屋の外に出て待っていた。目的は「ずっと待っていなさい」と最初に言われた指示を守ること、面会内容は、以前から希望を仄めかされていた日本語での出版について(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131120)、本意を探ることであった。
やはり、平日の昼間の会合である。ニューヨーク市の一等地に来られる距離で勤務されている方々である。いつまでも手持ち無沙汰に居残ってはいない。質疑応答もなかなか活発で、「これこれの問題はどうなったんですか?」「あの件の見通しはいかがでしょう?」などと、まるで流れ星のように、光の筋があちこちから飛び交うかのような様相だった。それに飽き足らず、その後もまだ個別にお話が続くのである。資金提供者とは、それだけの見識と責任感と分析の確かさを求めてくるのであろう。厳しいと言えば厳しいが、もし専攻と自分の能力が合致してやりがいがあるならば、まさにその通りだ。繰り返すようだが、いったん席を占めたら権威の権化とばかりにダラダラした大学とは大違いだ(http://www.danielpipes.org/12641/)。
そして、興味深かったことに、話が終わって部屋の外に出て、エレベータで帰ろうとする前に、大半の人が私の方へ歩み寄って、何か一言声を掛けてくださった。覚えている範囲では、「翻訳って、どこか日本の出版社に所属されているんですか?」というビジネス絡みの質問や、「最近、アジアでは中国と日本の関係が緊張しているんですよね?お国は大丈夫ですか?」という国際情勢の動向を問うもの、日本のことを少しは知っている、と言わんばかりに、近づいてきて、いきなり日本語の挨拶を始めたご夫妻など、さまざまであった。中には、ローラ夫人似のテキサス婦人のように、‘So you came...’とつぶやいて、すまし込んでエレベータに乗って行かれた楽しい例もあった。(このテキサス婦人とは、その二日後にもお会いしたが、ご挨拶もなく、再度すまし込んで離れたテーブルにつかれた。そこから私は密かに、彼女を主催者の隠れファンだと見定めている。まさにモテる「男はつらいよ」の世界である!)
長くなったので、この続きは、また明日...。