明治維新150周年と敗戦意識
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明治維新150年に思いを馳せ、“自立の精神”を奮い起こそう
2018年7月2日
・今年は、日本がサンフランシスコ講和条約によって、ふたたび独立国として立ち直ってから、もはや66年もたっている。それなのに、まだ、いったい自衛隊が合憲なのか、違憲なのか、国論を2つに割って対立しているというのは、つくづく情けないことだと思う。いったい、日本は自立した国なのだろうか。あまりにも、異常なことではなかろうか。
・自己を防衛するのは、本能から発しているし、天与の権利である。自己を正当に守ることについて、国家も、個人も、変わりがないはずだ。それなのに、現行の日本国憲法は、陸海空軍を保有することを禁じているうえに、どの独立国であっても持っている、交戦権を奪っている。
・外国から、武力によって押し付けられた憲法を、70年近くも、後生大事に戴いている国は、世界のなかで日本しかない。アメリカ軍が占領下で、現行憲法を日本に強要して、日本が再びアメリカと戦う力を持つことがないように、“丸裸”にしたが、日本の平和のためでなく、“アメリカの平和”のためだった。
・日本国憲法を「平和憲法」と呼ぶことに、私は両手をあげて、賛成したい。しかし、「アメリカの平和のための憲法」として、占領下で自由を奪われていた日本に、有無を言わせずに、押し付けられたのだった。日本は占領下で、国の旗の日の丸を揚げることすら、禁じられていた。
・国家は国民と国土によってだけでなく、精神によって、成り立っている。国家の何よりの基本的な条件は、自立する精神である。
・今日の日本は現行憲法のもとで、精神が薄弱な、精薄の国となっている。
・今年は、明治維新150周年に当たる。
・幕末から明治にかけた先人たちが、今日の日本を眺めて、アメリカへの従属憲法を改める気概を欠いているのを見て、どう思うことだろうか。
・朝鮮半島危機と、中国の脅威が、急速に募るなかで、いまこそ明治維新150年に、思いを馳せるべきである。
・国の行く末と、平和を祈る心は、宗教心と一つのものである。
(部分抜粋引用終)
上記コラムの主題を考えるために、読み始めた本を以下に。
実は、今年の2月中旬、靖国神社(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)に付設されている遊就館を訪れた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180626)。
パール博士が極東裁判で日本を擁護する発言をしたことが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180118)、パネルに堂々と大きな写真入りで解説されていた。
この時、一緒だった米国人の二人組は、頭を横に振ったり笑ったりしながら、「まだこんなことを言っているのか、日本人は....」「コミンテルンのせいで日本がアメリカと戦争を始めたって?」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180527)と、私に軽蔑口調で言った。
確かに、あの展示はいささかナショナリスティックな側面がある。大日本帝国のために命を落とした(台湾人や朝鮮人も含む)若き兵士達の冥福を祈り、ご遺族の気持ちを尊び(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070722)、後世から見て国策を誤ったとはいえ、当時の世界情勢から自衛のためだと信じて国を率いた指導者達を弔う、民族的な文脈による解釈と記憶の保存である。
1990年代初頭に、マレーシアやシンガポールの地元の人々の口から、戦時中の日本軍がいかに恐ろしかったかを直接聞くことのできた私にとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070722)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111031)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160809)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)、複雑な気持ちのする展示ではある。
同時に、国内の主流解釈を充分に踏まえなければならない。
ともあれ、いくら戦勝国人だからといって、戦後生まれの米国の二人が、アメリカの学校教科書で教えられた解釈のまま、日本側の展示を見てせせら笑う資格はないはずだ。
2012年12月に(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)、マレーシアのペナンにある小さな博物館で、いかに日本軍が獰猛では恐ろしかったかを数多くの白黒写真で示しているのを見たことがあるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160809)、だからと言って、マレーシアの特に華人の前で笑うことなど、私には到底できないからである。
確かに、民族主義的なマレー人やイスラミスト的志向を持つムスリムには、戦時中の日本軍を称賛する事例がある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180414)。だが、国全体としては必ずしもそうではないのが、マレーシアやシンガポールのような多民族多宗教国家の複雑さなのである。
もし、私が米国人に生まれたとして、来日して遊就館の展示を見たとしたら、どうだろうか。恐らく、素人ならショックを受け、帰国してから米国側と日本側の両方の文献を調べようとするだろう。そして、同じ出来事に対しても、立場が異なれば見方や感じ方がこれほど異なるのだという現実を、改めて認識し直すことだろう。
アメリカ人の全てが、日本に対して同様の態度を取るとは私は考えていない。だが、上記の二人に関しては、あまりにも政治上の目的志向が強過ぎて、視野狭窄と夜郎自大になってはいないかと感じられた。
他山の石とすべきである。
付け加えるならば、5月末に京都でご一緒した豪州の二人の女性達は、これまた靖国問題に対しても対照的な態度だった。
二人が言うには、「だってアメリカはスーパーパワーですもん、仕方ないわよ」と慰めつつも、「え!日本人が今でも敗戦意識を引き摺っているなんて、そんな話、初めて聞いたわ」「そのことについてもっと知りたいから、何か参考になるものを教えてちょうだい」「敗戦国の人々に対する時、戦勝国人は充分に配慮しなければ」と。
京都でお別れする直前にも、「東京に着いたら是非行ってみたいから、その場所をアルファベットで書いてね」と言われたので、遊就館の入館料まで教えて、メモを渡した。「これは、先の戦争に対する日本側の解釈が示されている場所です」と。
帰国後、京都で共にした時間を喜ぶメールと同時に、「行きました、靖国神社と博物館。とってもパワフルな展示でした」とお礼状が届いた。
英語圏の西洋人といっても、いろいろな立場がある。本来、上記の米国人と豪州人は、政治的には保守派としてほぼ同一線上にあったはずである。だが、君主制の有無が違いをもたらすのか、世界の中での国の位相の相違のためなのか、それとも家庭事情が思想を左右するのか、まるで正反対の態度だったことは、この問題を考察する上で非常に興味深い。