ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ツィッター文を転載しました(5)

ツィッターhttps://twitter.com/#!/itunalily65)に綴ったものを、年明けから順に転載していきます。

4 Jan 2012
・“Islamic Imperialism: A History” by Efraim Karsh, 2007 (http://www.amazon.com/dp/0300122632/ref=cm_sw_r_tw_dp_JH.apb0BBWB3P via @amazon) arrived today. The first book I obtained in 2012 !
・あら?Followersの人数がどんどん減っている。あれから確実に6人は減った。しばらく更新しないと、すぐにこうなってしまう。所詮、それだけのつながりだったのかしらん?このお正月には、喪中だったのに、お年賀状が届いた。私よりも主人の方が多く、毎日何枚か来ている。う〜ん。
・実は、元旦早々、ここには書けないショッキングな訃報があったのだ。17年来のマレーシアの友人のこと。後日改めて、ブログに思い出話を綴るつもりで、今、新聞情報などを集めている。地元では有名な人で、そういう人が、気軽に私の相手をしてくれていたなんて、ちょっと信じられない......。
・と思っていたら、フェイスブックにメッセージがあった。ある雑誌に私の葉書投稿文がよく掲載されるので、フェイスブックでやり取りができたら、と思ってくださっていたという。実は、フェイスブックよりもブログやツィッターの方が主なのだが、使い分けができるといいのだろう。記録を残したいのだが?
・下記の友人の追憶に浸りながら、昨晩からずっと、マレーシア華人神学者のエッセイ目録を作っている。ケンブリッジ大学で博士号まで授与されていながら、マレーシア社会では広東人およびプロテスタントのクリスチャンだということで、冷遇されている。私から見ても、割に合わない人生で、不条理だ。
・本当のエリート選抜だった、昔のマラヤ大学卒業。せっかく神学を学んでも、教会では活躍の場があるが、例えば、マレーシアの国立大学で、正規コースとしてキリスト教文化などを教授することは不可能だ。イスラーム関連なら、法学、歴史学イスラーム文明、イスラーム学科など、いっぱいあるのに。
・だからこそ、ますます頑張るのが、華人華人たる所以。そこは学びたいところだ。対立を避け、和を重んじるというお題目のもとに、明らかな誤りも黙認するのは、大人の態度とは言えない。彼のエッセイを読んでいると、数年前はわからなかったことが、今なら納得がいく。私も少しは成長したのかしら?
・2009年秋に、「ムスリム多数派社会では不利なのに、なぜクリスチャンのままでいるのか」と彼に尋ねたところ、「これまでは、非ムスリムの方が経済的に有利だったからだ。ただし、今後は人口上も政策上も、そうはいかないだろう」との返事。「いつになったら、イスラーム復興が完了するのか」と私。
・「それはいい質問だ。だが、我々にもわからない」とのお答え。「非ムスリムイスラーム復興を止められないのか」と質問すると、「我々には止められない!」と。将来、特に子ども達のことを本当に心配している様子だった。教会はもっと強くなり、発言をしていかなければならない、と。
・英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120104)をご覧くだされば、背景がうかがえるかと思います。

5 Jan 2012
・"The Lost History of Christianity: The Thousand-Year Golden Age of the Church i..." (http://www.amazon.com/dp/0061472816/ref=cm_sw_r_tw_dp_zSrbpb0MQZR4C via @amazon)arrived here today.

6 Jan 2012
・“Militant Islam Reaches America” by Daniel Pipes, 2002/2003 (http://www.amazon.com/dp/B004X8W5IK/ref=cm_sw_r_tw_dp_KlSbpb0T560CD via @amazon)arrived here today from the USA.
・"The Politically Incorrect Guide to Islam (and the Crusades)" by Robert Spencer, 2005 (http://www.amazon.com/dp/0895260131/ref=cm_sw_r_tw_dp_zoSbpb1S07EWN via @amazon) arrived here today.
・以下の2冊の中古版がアメリカから届いた。いずれも、「イスラモフォビア」と名指しで非難されている著者。ロバート・スペンサーは大衆向きで、彼のお祖父さんの背景を知れば、このような活動の理由がわからなくもない。ただし、記述が平板で単純過ぎる点が、好みに合わない。
・ダニエル・パイプスは、より知的な記述で、話し方も落ち着いている。ポーランドユダヤ人の移民で、お父様はハーヴァード大学教授だった。以前、カリフォルニア大学バークレー校の『歴史との会話』という対談シリーズで、「父はアメリカ合衆国に感謝していた」と冒頭で述べていた。
・なぜこういうものを読む気になったかと言えば、講演などで、名指しで非難されている人を知るのに、インターネット上の文章だけでは、よくわからないことが多いからだ。何冊か続けて一人の著作を読めば、大体のところが把握でき、その後ならば、講演内容の是非も自分なりに判断できるようになる。
・つまり、安易なレッテル付けはしたくない、という自分なりの意思の表れ。ダニエル・パイプスは中世イスラームの研究から現代イスラームに関する発言へと転向した。イスラームそのものを批判しているのではなく、軍事的イスラームと呼ぶ側面にのみ、批判的な目を向けているようだ。
・元々、シカゴ大学などで教えていたが、1980年代半ばにアカデミアを退き、現実社会への直接的な言論活動に従事している。キャンパス・ウォッチでも批判されているが、単に「赤狩りの中東版」と非難するのではなく、その理由の検討と、彼の執筆および言動の正確さと一貫性を重視すべきだろう。
ベトナム戦争時には体制派の立場で、学生達とは対立したようだ。それに関しても、共産ポーランドを体験した人ならではの背景を考慮する必要があるだろう。ただし現在は、イラク戦争時の「ネオコン」寄りの立場とは一線を画しているらしい。つまり、ある時点だけでその人を決め付けることは不可能。
・ともかく、マレーシアに関する記述が、私にとっての判断基準だ。両者とも、よく情報収集していて、その意味では刺激になり、参考にもなる。ところで、中古版の本は、日本国内ならばきれいで安心できるが、アメリカやドイツからのものは、届くとすぐに、アルコールを吹き付けて丁寧に拭き取らなければ。
ティッシュで拭くと、それなりに黒ずんでくるので、やはり清潔ではない本なのだと思う。中身は書き込みもなくてきれい、というよりも、単に目を通しただけなのだろうが、それにしても、もう少し何とかならないものか。日本国内の場合、だいたいにおいて、評価は信頼できる。きちんと包装し、迅速だ。
・図書館で借りた本は書き込めないので、ノートを取り、必要箇所を複写してファイリングする。ただ、すぐには読めなさそうだったり、専門と関係があるので、手元に置きたい本のみ、中古でも買うことにしている。入手した本は、遠慮せず、どんどん書き込みをする。本は増える一方。今年は整理の年にする!
・インターネットは便利だが、やはり本を読む方が大事だと思っている。昨年末頃から、イスラミストだと呼ばれている欧米在住のムスリム知識人のインタビューや対談や座談会をYou Tubeで見ていたが、残念ながら、常に論旨が少しずつずれていて、それが戦術なのだろうとわかってきた。
・マレーシアでも、ムスリムが議論に入ってくると、何が何だかわからなくなってくる。21年前にも、職場でそんな経験をした。こちらが質問をすると、長々と説明が返ってくるが、無理難題だったり、一方的だったり、形式的だったり、どこか筋が合わないのだ。真面目に付き合うと、時間ばかり消耗する。
・先程、何度か来日経験のある、ロンドン在住のハマス支持の某ムスリム博士に対する10分程度のテレビ・インタビューを見ていた。結局、言わんとするのは、欧米で事件が発生すると、すぐにムスリムのせいになったり、イスラミック・テロだというが、それに対する反論ないしは怒りのようなものだった。
・反論したい気持ちはわかるとしても、聴いていてなじみのある問題だと感じたのは、司会者の男性が直言していたように、「二つの問題を同時に議論する」というやり方。例えば、aについて尋ねているつもりなのに、その返事が、まずはa'と外され、続いてbそしてcへと、一人で勝手に発展していくのだ。
・「ちょっと、待って」と、その場ですぐに止めなければ、どんどん話が逸れたまま拡大していく。黙って聞いている側が混乱し、馬鹿を見るはめになる。その点、日本人はお人よしというのか、大抵静かに黙っているので、恐らくは御しやすいと見なされているのではないだろうか、と何年も前から感じていた。
・「対話の大切さ」が説かれて10年以上になるが、そもそもムスリムは対話というか、お喋り大好き。本を静かにじっくりと読むよりは、その場でにぎやかに喋り通す傾向がある。「書かれたものよりも、その場で話したことの方が真実であり、重要視される」習慣だとも、何年も前にどこかで読んだ。
・我々の慣習では、人間の記憶は頼りがいがなく、不正確で感情に左右されることも多いので、それを防止するためにも、議論した結果を文書にまとめて、責任者を名前か署名で銘記し、紙の記録に残すことで、信頼性を高めるという考え方だ。書いたものは真実ではないとするなら、虚偽の上に成り立つのか?
・だから、対話は時間の無駄だと何年も前から思っているのだ。ちょっとでも、こちらの使った用語が違うと、即座にその訂正から始まる。結局は、ムスリム側が常に、静かなる平和な犠牲者で、何でも非ムスリム側に非があるという方向になってしまう。果たして、本当にそうだろうか?
ムスリム知識人にも、当然のことながら、著作がある。ただ、気をつけなければならないのは、いわゆるムスリム言語、つまり、アラビア語やマレー語などで書かれている内容と、英語やフランス語などで書かれているものとでは、ニュアンスが異なることだ。ここが肝心要。タリック・ラマダン博士も同様?
・タリック・ラマダン氏は、ジュネーブで育ち、欧米圏での西洋言説に合うような形で、祖父譲りのイスラーム言説を柔和に披露する。だから、何も知らない人は、その場で(こういうイスラームなら希望が持てる)という気になってしまうのだろう。私は、彼のやり取りを英語(とフランス語)で見たが...
・もっとも、サルコジ大統領の挑発的な話し方にも問題があるが、それに対するタリック・ラマダン氏の返答も、興奮状態でわぁわぁ喚く感じで、正直なところ、あまり品のよいものとは思われなかった。また、フランス人女性の著作に対する反論も、「この本には間違いが200もある」とまくしたてていた。
・このような映像を集中的に見ていて、やはり議論や対話は時間の無駄だと再認識した。これが世間の実像の断片でもあるのだろうが、私には不向きだ。偏見というのではない。最初から論法と結論が決まっているものには、興味を感じないというだけだ。相手を尊重すると自分の立場が浸食されてしまうから。
・欧米の著名な大学レベルの対話や議論を映像で見ていて、(これは大変な時代になった)と心底思った。聴衆には必ず、色とりどりのスカーフ姿が混じっている。発言を逐一監視しているかのようだ。少しでも気に入らないことがあれば、「それは差別だ」「言論や思想の自由が確保されていない」と叫ぶ。
・もともと、言論思想の自由や、人権上の差別禁止の歴史は、何に基づくものなのか、少しでも調べて考えたことがあるのだろうか。1948年の国連人権宣言はOICによって批判され、1990年のカイロ人権宣言で「イスラーム版」として提出された。しかしそれは、非イスラーム圏では後退と見なされる。
・つまり、矛盾を平気で行使していることになる。自由で開かれた非イスラーム先進国の高等教育や公共言論の場に進出して、ムスリムとしての権利を享受しつつ、相手を非難するのだ。これでは、混乱が混乱を招き、社会が停滞するか分裂してしまう。私がここ二ヶ月ほど、集中して調べ、懸念してきたことだ。
・これも、日本国内にいただけではわかりにくいことかもしれない。独立前後のマレーシアの社会史を勉強した後に現状を観察すると、残念ながら懸念は実現した、と言わざるを得ない。もっとも、西洋教育を受け、開かれて公平な立場のムスリム知識人もいたのだが、1980年代から社会が変容したのだ。

7 Jan2012
・大島直政(著)『イスラムからの発想』(講談社現代新書 629) (http://www.amazon.co.jp/dp/4061456296/ref=cm_sw_r_tw_dp_Acdcpb063ZD2Z)を近所の図書館から借りた。
・ジル・ケぺル(著)『ジハードとフィトナ イスラム精神の戦い』 (http://www.amazon.co.jp/dp/4757141203/ref=cm_sw_r_tw_dp_Zedcpb049500S)も借りた。
・"Defending the West: A Critique of Edward Said's Orientalism" by Ibn Warraq (http://www.amazon.com/dp/1591024846/ref=cm_sw_r_tw_dp_Ogdcpb17QGKDH via @amazon) arrived here today.
・"Why the West is Best: A Muslim Apostate's Defense of Liberal Democracy" by Ibn ... (http://www.amazon.com/dp/1594035768/ref=cm_sw_r_tw_dp_eidcpb0V5M9MD via @amazon) arrived here today.
・Dr. Daniel Pipes "Conversations with History" 10 February 2004 (http://j.mp/zdRr4x) is interesting to listen. Harry Kreisler is good.

8 Jan2012

・"Ivory Towers on Sand: The Failure of Middle Eastern Studies in America (Policy... " (http://www.amazon.com/dp/0944029493/ref=cm_sw_r_tw_dp_5DAcpb03JV7B3 via @amazon)arrived today.
・ダニエル・パイプス氏の本に大凡目を通したが、なかなか興味深く、参考になった。単純に「反イスラム」として葬り去り、無視できる内容ではない。日本に関する記述が否定的なことと、マレーシア野党のアンワ―ル・イブラヒム氏を「軍事的イスラミスト」と呼称している点が気にはなる。果たしてそうか?
・いずれにせよ、左派リベラルの進歩派を気取る知識人や聖職者は、大抵、保守派に負けるとの主張のようだ。対話や「善意」を示すことで、緊張緩和や衝突回避を見出そうとするのが前者ならば、現実を見据え、「解決策」を提出することで問題を解消しようと考えるのが後者だとの由。状況によると思うが。

9 Jan 2012

・結局のところ、おもしろい本とは、読み応えがあり、新しい知識や物の考え方に触れることができ、刺激を与えられるもののことだ。つまらない講演や退屈な本は、今後は極力避けるべし。ともかく、ダニエル・パイプス氏が、それほど悪い人でもなさそうなことが判明し、ほっと安心した。
・昨日届いた『砂上の象牙の塔』を読み始めたが、なかなか辛辣でおもしろい。ずっと前から、記述内容が気になっていた故エドワード・サイードや、昨年12月20日に来京され、講演を聞いたエスポジト教授に対する批判が何ページにもわたって綴られていた。密かに感じていたことと合致して安心した。
・ただ、今だからこのような本が読めるのかもしれない。いつも繰り返しているように、タイミングが大事であり、理解してくれる環境も重要だ。そして、さすがはと思うのは、膨大なリサーチ量。やはり、国の存亡がかかっているだけに、情報収集に必死なのだろうし、敏感に感じ取れるものがあるのだろう。
・昨年末のエスポジト教授の講演に対する私の観察と感想は、日本語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111221)をご参照ください。この頃読んでいる本と問題意識が重複していることに、我ながら驚いています。もっと自信を持ってもいいのかしら?

10 Jan 2012

・ただし、この種の問題は、両者を公平にするということが事実上難しく、いずれかの立場に立たなければ、「敵を二つ作ることになる」のだと、何年か前の会合で個人的に教わった。また、いちいち人の言うことを真に受けていたら、何も言えず、何も書けなくなってしまう、とも。対立は対立のまま認める。
・昔の専攻では、「日本の和」などを強調されていたので、つい、今のようなテーマでは、自分が悪人に回っているような忸怩たる思いが抜けきれないが、だからこそ、物が言えず、書けなくなるのだとも思う。オーケストラをやっているんじゃないんだから、ソリストみたいな感覚で、「私はこれでいく」と。
・ダニエル・パイプス氏に対しては、痛烈な批判も多いが、同時に、賛同者も同じく多い。彼が、言いにくいことをはっきり表現しているからだろうと思う。それによって、困難を自ら招いている面もあるだろうが、それ以上に、危険を防止していることもあるだろう。現実主義的な思考で、先々を見据えている。
・今のところは、ムスリム諸国のイスラーム復興や各イスラーム運動に世界的な注目が集まっているが、パイプス氏が目下考えているのは、イスラエル内のアラブ・ムスリム問題だという。今後、ユダヤ性をどこまで確保できるかが懸念されるとの由。「イスラエルユダヤ国家」というだけで、非難轟々だが。
・ともかく、ダニエル・パイプス氏が非常に聡明で優秀なことは確かだ。哲学など抽象的なものを除き、自分の守備分野では、ユダヤ系学者の書いた本や論文はとても説得力があり、具体的で隙がない。緻密に計算した上で表現されている。読んでいて大変参考になり、知的刺激に富み、だから気持ちがいい。
・もともとは、子どもの頃から堅苦しく理屈っぽい本を読むのが好きで、話す内容も年より2,3歳上に見えると言われていたので、気質上、私にとっては、ユダヤ系の方が合うのだろう。音楽でもなじんでいる。パイプス氏の危機管理意識の高さ、物事の本質や先行きを見通す力、これには感化されたいものだ。
・念のためもう一度。パイプス氏は、田舎で静かに暮らしている普通のムスリムイスラームそのものに反対しているのではないと、繰り返し強調している。イスラミスト、すなわち戦闘的ムスリムや政治的イスラーム思想が社会秩序を脅かすことに対して、危険を察知して警鐘を鳴らしているのだという。
エスポジト教授は、2011年12月20日の京都での講演で、ダニエル・パイプス氏の名を批判的に挙げていたが、実は、1999年12月、パイプス氏の『中東フォーラム』誌の座談会で、「ジョン」と呼ばれつつ、参加されているのだった(http://www.danielpipes.org/5396/is-islamism-a-threat)。
・この座談会、ざっと目を通したところだが、さすがはアメリカ、こういう点が柔軟で早いと思った。各人の発言や指摘は、今から考えても、的確なところがある。ともかく、エスポジト教授とパイプス氏の関係は、単なる「左派」と「保守派」のようなレッテル付けでは済まされないものがあることがわかった。

11 Jan 2012
・両者ともマレーシアに関する言及があり、私のリサーチ・テーマと重複していることに驚いた。ただ、エスポジト教授より、パイプス氏の方が私と視点が近く、同じテーマでエッセイを書いていることもわかった。後者が、自分は学生運動が盛んだった時代から「小さな少数派」だったという述懐がおもしろい。
ハーヴァード大学関係者の多い環境で生まれ育ち、自分は父親と同じく保守的な政治志向だったが、周囲には、親が保守でも子どもは過激派になったというケースも多く、(どうして自分は小さな保守派マイノリティなのだろう)と思っていた、という。この言述が非常に興味深く、おもしろかった。
・1967年から1971年までをハーヴァードの学生として過ごしたが、当時、日本でも盛んだった大学紛争と同系列の、アメリカの学生反抗と革命思想に対して、パイプス氏は(彼らは間違っている)と思っていた、と述べている。過激派との議論が自分にとっての政治教育だった、とも。この点も興味深い。
・結局、エスポジト教授とパイプス氏の分水嶺となったのは、つまるところ、2001年9月11日の同時多発テロ前後に関する認識の度合いだった。残念ながら、エスポジト教授は、近くにいながら危機に対して甘い見立てをしており、パイプス氏は敏感に察知して警鐘を鳴らしていた。それが分かれ目だった。
・この違いはどこに基づくものだろうか。まず、エスポジト教授がイエズス会系統でありながらも、カトリックの保守性等に対して批判的な目を向けていることや、イタリア系移民として「固定観念」で見られたことの不満から、ムスリム移民に対して共感的になっているという経緯を無視することはできない。
・また、中東(サウジ)から資金を得て運営されている大学プログラムの長なので、イスラーム全般に対して批判的ではあり得ず、むしろ、クリスチャンでありながら、イスラームの護教者のような立場で論を展開している点が特徴的だ。一見、相互理解や相互尊重という、麗しく新たな方向性のようにも見える。
・しかし、まさにそこが問題なのだ。華やかでエネルギッシュな3時間の講演を聞いていて、何か欠けのようなものを感じさせられたのは、その点だ。一方、パイプス氏は、ご両親ともナチから逃れるためのポーランド移民で、その二世であり、米国に感謝していると述懐。親イスラエルだとも公言している。
・つまり、自分のルーツに対する反発や嫌悪感を持ち合わせていないようなのだ。あまりはっきりと述べてはいないが、相当な自負心ないしは矜持がうかがえる。体制派寄りだということは、家庭環境にも満足していることの示唆だ。同時に、イスラエル情勢が常に念頭にあるので、敏感にならざるを得ない。
・また、同じイスラーム専門とはいえ、エスポジト教授の研究指導がパレスチナ出身のムスリムの先生で、パキスタンムスリム家族法の研究が出発点だったのに対して、パイプス氏は、ムスリム社会の奴隷と兵士の関係に着目し、歴史学の観点から、軍事的にイスラームを捉えたという点も看過できない。
イスラームに関する研究としては、どちらの立場や見方も重要であり、その是非を問題にしているのではない。ただ、両者の背景や視点の違いが、危機管理に対する意識の相違につながり、国の防衛の見識にまで影響を及ぼすとするならば、事は甚大だ。僭越ではあるが、マレーシアのイスラームに関しても..
エスポジト教授の見方は、高い地位から一般社会に及ぼす影響力も大きく、責任重大なのに、何かが足りないように感じられた。パイプス氏は、その点で、はっきり言い過ぎているかもしれないが、事態をそれほど楽観視せず、小さな事柄でも迅速に取り上げて言及し論述している。それがまた的確なのだ。
・事が事だけに、批判的な見解を公言するには勇気がいる。正確な証拠をきっちり掴まなければ、すぐに訴えられもする。パイプス氏に非難を浴びせているのは、左派および政治的主張の強いムスリムのようだ。彼が「敵」「我々と共にあるか」など、ブッシュ元大統領さながらの表現を使う点も、懸念される。
・そこを控えれば、もっとよくなるのにと内心思いつつも、はっきり言わなければ伝わらない面もあるのだろうか、と反芻してみたりもする。もっとも、アカデミアを退いて、今では、メディア・ジャーナリズムの世界にも半分、身を置いているので、「発言はわかりやすく」を建前とする論法なのかもしれない。
・日本人の私が言うのも変なのだが、特にパイプス氏を贔屓にするわけではないとしても、少なくとも彼の情報収集と分析は、大きく外れたり危険を甘く見積もったりはしていないという点で、ユダヤアメリカ人の保守派としては、そうなのだろうなぁ、と納得がいく。ちょっとしつこい点も散見されるのが難。
エスポジト教授の一連の言動で、以前から気になっていたのが、根本動機の部分だった。カトリックの人がイスラーム改宗する事例は、それほど珍しくはないが、(それにしても、なぜそこまで)と、バランス感覚に何か奇妙さを覚えていた。それに比すれば、パイプス氏は背景も動機も実にストレートだ。
・つまり、彼の発言すべてに全面的な賛同を寄せるというわけではないにしても、そのような背景と思想(政治的保守性と自由主義)ならば、一つ一つの言動にも整合性が見い出せ、その意味では理解が進みやすく、動機に疑問なし、という安心感を与えるのだ。人の判断の際には、ここが大切だと私は思う。

13 Jan 2012
エスポジト教授とダニエル・パイプス氏の論戦については、2012年1月13日付英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120113)に焦点となる部分を列挙しました。このお二人が、ふざけて楽しんでいらっしゃるのか、それとも真剣にネガティヴ・キャンペーンを競い合っているのか、不明。
・少なくとも私自身が、「ネオコン」とか「宗教右派」とか「エヴァンジェリカル」とか「シオニスト」という単純なレッテル付け組織に属しているから、パイプス氏に加担しているというのではない。私はどこにも所属していない。ただ、予備知識なく、まっすぐマレーシアの問題を通して、共感しただけだ。
・やはり、このあたりで、ツィッタ―文をブログに移す準備をしよう。今日もこれで終わってしまった。いつになったら、たまっている用事や整理が終わるのかしら?
・"God's Continent: Christianity, Islam, and Europe's Religious Crisis" by Philip Jenkins (http://www.amazon.com/dp/0195384628/ref=cm_sw_r_tw_dp_AEbepb0WHSXGG via @amazon)arrived here now.

(転載終)

もしこれが、対立を激化させる思想につながるのであれば、もちろん控えるべきだろうことは言うまでもありません。でも、黙っていたら鈍化する側面もあり、気が付いた時には既に遅し、というのでも困ります。
そもそも、言論の自由は、エスポジト教授のような立場もパイプス氏のような発想も、共に存在してよいと保証する概念でした。判断するのは、我々一人一人です。私はここで、両者いずれに対しても、もろ手を挙げて全面賛同する立場にはありません。ただ、くどいようですが、過去22年間、マレーシアの聖書問題や、キリスト教やヒンドゥ教や先住民族の人々に関するマレーシア当局とムスリム指導者層の対応を見ていて、また、先行研究を調べてみて、突き詰めていくと、淵源にはこのようなことがあるのではないか、とパイプス氏の見識により近いものを感じたまでです。
いろいろな問題があるとはいえ、アメリカは大国で圧倒的な力を有しているので、より目立つということもあるのでしょう。私の場合は、2007年にこのブログを始めるまでは、長年、ディレンマを覚えながらリサーチを続け、考察を重ねてきました。最も言いたいことは、物事は複雑であり、それほど単純には即断できない、これに尽きます!