今日は降誕祭。最後のブログを書いた12月2日(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121202)の翌日から昨日まで、忙しくも非常に充実した、しかも、さまざまな心配事が実にタイミング良くクリアされ、すべてが捗ったありがたい時期を過ごすことができました。気候も全く異なり、直前までバタバタと他事に関わって準備不足の感があったのに、健康も身の安全も守られ、私にとって、これこそが、まさにクリスマスの贈り物なのだと思います。
繰り返しになって恐縮ですが、やはりこれも「パイプス効果」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121021)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)。これまで混沌としたつかみどころのないリサーチ滞在に比して、三年ぶりの今回のマレーシア・シンガポールの旅(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091015)では、一つの指針が与えられ、強力な援軍となってくださいました。もちろん、ご本人が何か具体的に指図されたというのでは全くありません。そうではなく、イスラーム中東研究に関する長年に及んだ彼の孤軍奮闘ぶり、孤立や批判を恐れず、確固たる理論に裏付けられた事実を直視して率直に発言する学究的態度、困難な状況下にあっても密かに頑張っている少数の人々に対する深い思いやりと支援、それに何よりも、あの雄弁なウェブサイトのおかげで、私自身がいかに慰められ、励まされてきたことか。たまっていた訳文掲載も、この旅の間に複数回に分けて、エルサレムのレヴィ君がアップしてくれ、それも非常に心強いことでした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121202)。これで、年内に提出した拙訳は全部上がったことになります。(私も頑張ったけれど、日本語の読めない(であろう)レヴィ君も非常に頑張りました!)
12月7日から20日までのマレーシア(クアラルンプール・セレンバン・(6年前に市に昇格したという)プタリンジャヤ・クラン・ペナン)とシンガポールの二週間の旅は、22年前からの家族ぐるみの友人の長男(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091016)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091102)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120127)の結婚式(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)、18年前からお世話になってきた華人の友人が昨年12月20日に亡くなったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110323)そのお墓参り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)、学会発表させていただいた植民地時代の宣教師達のお墓参り(ペナンとシンガポール)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100408)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100724)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100810)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100912)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110920)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)、クアラルンプールとシンガポールの国立図書館での資料収集、クアラルンプールと国際空港にある大書店での書籍購入、その合間に、メール・インタビューを私に申し込んできたマラヤ大学法学部の女子学生さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120412)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120926)やリサーチ関連のインフォーマントとの面会、最終日には、これで三度目の面会となったクアラルンプール・カトリック大司教(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070703)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070725)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071004)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080116)(http://jams92.org/pdf/NL21/21(22)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL24/24(06)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL26/26(10)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL27/27(24)_tsunashima.pdf)との急遽1時間半に及ぶ面接など、予定は毎日目白押しでした。
結局、出発前には書いておこうと思った三つの演奏会の記録は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121125)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121126)、ワードに下書きが残ったまま見切り発車。事前には、実家の父が入院したとの由で、何かあれば途中で帰国する覚悟で出発しました。当然のことながら、主人の健康状態や日々の生活と仕事のことは気になっていましたが、出発を延期したからといって解決する種の問題ではなく、一期一会で機を捕えなければ、永遠に逃してしまうと思い、決行することに。独身時代や二十代の頃には(また行ってくればいいよね)みたいな感覚がどこかにあったのですが、年を取れば取るほど、(もうこれが最後かもしれない)という血相で重い荷物を抱えて出発することになります。観光客よろしく、おしゃれなんてどことやら、なりふりなんて構っていられません。
22年前と比べれば、今はマレーシアでもIT化が進み、一定水準以上のホテルであれば、パソコンも携帯も使えることに表向きはなっているのですが、私の今回の印象として、あまりにも急激に超高層ビルが林立し、箱ばかりが立派になっているために、人材育成が追いつかず、見かけ倒しだな、ということ。そもそも、経済援助と技術移転という事実そのものが、人材育成に反するのです。今回、主人が「だって、ここに使えるって書いてあるよ」と率先して、スカイプだの何だの、いろいろと手配してくれたのはいいのですが、結局のところ、マレーシア発のスカイプではなく、日本発のスカイプ電話で主人と何回か連絡を取り合うことになった次第。つまり、ホテル側が途中で「装置が故障した」と言い出し、使用不可となったのです。到着直後は、意気揚々と「ITも使えます」と誇らしげに紙をわざわざ部屋まで持ってきてくれたのですが、故障してからは、フロントも気まずさを隠すためなのか、つっけんどんに。
そして、世代交代が進み、首都圏に限れば、30歳前後の人々が自信たっぷりに町を闊歩し、歯の矯正をしている若者が目立ち、茶髪やドライヤーでまっすぐに伸ばすヘアスタイルなど、こちらがかえって田舎者みたいに見られているかのような感覚でしたが、それは単純に表向きの表層面だけ。例えば、お客の私を差し置いて、食事も挨拶なしに一人だけさっさと食べ始めてしまう女性とか、延々と夜中まで続いた豪華で派手な結婚披露宴の割には、引き出物が毒々しい色つきの小さなキャンデー一箱だったりなど、ちぐはぐさが目立ちました。
それに比べれば、ペナンはまだマレーシアらしさが残っていますし、シンガポールに至っては、そのような高度急成長の時期を一つ越えたという落ち着きが感じられ、人々が非常に丁重で親切でした。シンガポールの中心街は、言葉と人が違うだけで、まるで名古屋か大阪の地下街風ですが、それを自慢げに振る舞う人々に対しては、私としては断固却下。だって、日本を追い越したのではなくて、まねしているだけなんですから、全く面白くも何ともない。昔から私は、一貫してそのような態度でしたが、今回、「ご近所効果」とダニエル・パイプス先生が呼んでいらした現象(http://www.danielpipes.org/208/taiwan-in-japans-footsteps)を追認する思いで、密かに私はニヤニヤしていました。
今回の最大の収穫は、広東人プロテスタント神学者でカイロス研究センター所長のDr. Ng Kam Weng(伍錦榮博士)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Dr.+Ng+Kam+Weng%22)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070822)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080425)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080614)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090428)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091027)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091103)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100615)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100626)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100703)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110307)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110424)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120321)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121025)との昼食抜きの4時間の会話。普段からお忙しいし、ただでさえアドベントの季節なのに、結婚式に合わせて私が急遽マレーシアに行くことになったと事前にメールで伝えただけなのにも関わらず、「じゃ、何とかして時間のやり繰りをして会おうぜ」みたいなノリになり、非常に喜んで歓迎してくださいました。
これで2006年以来、三年おきの三回目の面会。過去二回は、福建人の女性クリスチャンが車で同伴してくれていましたが、今回はシンガポールに滞在中だとの由で、私一人でオフィスへ。約束の時間前には到着していたはずなのに、タクシーを降りてから、番地を探すのに一苦労。というのも、「19B」を「198」と読み間違えていたからなのです。暑い最中に、ぐるぐる歩き回って場所を探し当てるのに20分ほど。しかも、なぜか突然、コンクリートの地面の上に、パウロが叩き付けられたかのごとく、転んでしまいました(使徒行伝 9章1節-20節)。転ぶはずのないところでです。その結果、日本から大切に持ち運んできたお土産の箱がすっかりつぶれてしまいました。
こんなハプニングつきでしたが、ケンブリッジ大学博士号という輝かしい経歴には不似合いなほど質素なオフィスに何とか辿り着くことができました。「暑いでしょう、冬の日本からはるばる遠方のマレーシアまで...」と穏やかな表情で迎えられ、「いえ、今では隣国です」とか何とか、一生懸命汗をふきながら答えた私。ついでに、先程、不意に転んだ時にできた右手の擦り傷から出血していて、タオルで止血しながらの会話となってしまいました。(いかにも私らしい...どうも「鈍くさい」の一言ですね!でも、どうしてあそこで転倒したのでしょう?)
結局のところ、こういうことです。昨年の12月20日にジョン・エスポジト教授が来京されて三時間の記念講演とやらをされたことがきっかけで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111221)、長年、陰に日向にマレーシアのイスラーム動向とも深く関与されてきたらしいエスポジト氏に対して「あれはとんでもない人だ」と嫌悪感をあらわにしていたDr. Ng Kam Weng(伍錦榮博士)にとっては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120113)、それを機に私がダニエル・パイプス氏とつながるようになったばかりではなく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)、パイプス氏からの申し出によって邦訳まで手がけるようになった経緯を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)、とても喜んでくださったのです。だからこそ、この忙しい時期にも、直前の連絡にも関わらず(直前にした理由は、こちらも父の緊急入院で予定がどうなるかわからなかったことと、ずっと前からアポ設定をして無理矢理お時間を取らせるのは恐縮だと思ったからです)、「よし、時間をやり繰りして何とか会おうぜ」みたいな感じで楽しみにしてくださったのでしょう。
もともと、反日感情の強い方でした。パハン出身のマレーシア華人三世としては、戦時中の日本軍の虐殺行為などから、それはやむを得ないことだと私は長らく覚悟の上でした。言葉で謝罪することは、案外に簡単なものです。そういうことをしている日本人は、他にもいます。でも、私は、その場だけでは意味がないと若い頃から感じていました。だから、思い切って時間をかけるしかない。例え気に入られないとしても、自分としては、マレーシアが抱える根深い問題について、共感を寄せつつも、外部の者だからこそできるかもしれない部分で何とか少しでもご協力できれば、という一途で本気な姿勢を示すしかない、と捨て身の気分でした。
とはいえ、過去二回の面談で、日本が古代には中国や朝鮮から高文化を学び、感謝してきたこと、日本軍政時代には、兵士達は実は殺したくなかったけれども、上部の命令に逆らうことは当時は困難で、情報も極めて限られた中での戦いだったために、華人大量虐殺に加担したこと、でも、私が読んだ文献では、死ぬ直前になって犠牲者に謝罪の念を表明している元兵士達もいたこと、などを話しました。
また、私がマレーシアと関わった経緯が、そもそもきちんとした日本の組織の派遣によるもので、マレーシア政府プログラムに協力する仕事であったこと、私のリサーチ・テーマの動機も、その時の滞在経験中から自然発生したものであることが、全く不純なく整合性を伴うことを確認されたので、今回は、堅苦しい挨拶抜きでいこうじゃないか、ということだったのでしょう。「前までは自分は用心していたけど、今はいいんだ」とおっしゃいました。つまり、リサーチ内容の深刻さと複雑さもさることながら、私の背景や動機や身元が確認できない限りは、なかなか信用できなかったという表明でもあるのでしょう。
今から考えれば、日本での研究発表が常に念頭にあったので、守秘義務の約束は守ること、誰に対しても一貫性を保つこと、自分の研究動機やその過程に関して嘘は一切つかないこと、英語と日本語のブログでも自分の立場を公明正大に表明することだけを貫いていたら、先方も私のことをそれなりに観察していて「それならよろしい」ということになったのだろうと思います。今回も、「前よりハッキリ自分を表現するようになったね」とニコニコ顔でした。「用心していましたから」と私。これで晴れてお互い様。人生、苦労はするものですね。
詳細はおいおい、ブログで綴っていくことにして、ともかく、ダニエル・パイプス先生とのつながりを手放しで非常に喜んでくださったことで、大きな安心感が与えられました。あれほど、米国内のみならず世界的にも、不当な中傷をさんざん浴びてこられた方です。しかも、エスポジト教授が、京都にまで来て、私達の前で「ダニエル・パイプス、反イスラーム!」と投げつけるように非難されたのです。今回のマレーシア行きに関しても、滞在中、私を長年知るリサーチ関係者が、今年一年の私のフェイスブック(http://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)やブログ引用(http://pub.ne.jp/itunalily/)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive)を見ていたとしたら、どんな反応をするだろうかと気にならなかったわけではありませんでした。
ただ、情報操作されて窮屈な精神生活を強いられているのは客観的に見てマレーシア人の方であって、日本にいる私ではなく、私は私なりの慎重な判断でパイプス氏を受け入れる決心をしたのだから、また、彼との頻繁なメール交流で、私こそが彼を個人的に知っているのだから、むしろ、遠慮することは何もないとも開き直っていました。それに、外交面では日本政府がどれほどマレーシアに援助をしてきたことかは、マレー人が最もよく知っているはずです。そして、少なくとも、自覚している範囲では、国際交流基金の派遣時代も、リサーチを独自に始めてからも、宗教面でマレー人とは距離を置いており、自分が知り得た内容について、マレー人に密かに情報を流すことなどは一切しておりません。
案の定、「アメリカ人は自分が何をしているかわかっていない」と知ったかぶりの「にわか論評」をする若い世代にも出会いました。でも、彼女はマレー語でも教育を受けていて、国内教育制度にどっぷりと浸かっている華人です。急激に経済的にもっと裕福になり、超現代高層ビルの林立を所与の物として見て育った世代です。自由に生きているようでいて、実は「何をしているかわかっていない」のは、このようなマレーシア世代の方でもあるのです。
Dr. Ng Kam Weng(伍錦榮博士)は、実はエスポジト教授と青天の霹靂のような個人的な接触が過去にあったそうです。単にマレー人に冷遇された華人としての不満からではなく、エスポジト教授のイスラームに対する態度そのものに対する疑念を反映したその接触経験からの反感でもあったようでした。パイプス先生に関しては、「聖書的イスラエルと政治的イスラエルの相違」「聖書的シオニズムと政治的シオニズムの違い」をはっきりと認めつつも、「彼はユダヤ人だ。過去の歴史において、クリスチャンがいかに間違ったことをユダヤ人にしてきたことか。そのクリスチャンの過ちを我々は認め、ユダヤ人がイスラエル国家を持つ権利を支援すべきだ」と明快でした。「パイプス氏は世俗的なユダヤ教徒で、律法を厳密には守りませんが...」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120916)と私が申し添えると、「いいんだよ、それで。あの人の関心事を我々はもっと宣伝すべきだ。彼はいい学者だよ」と念押しされました。
マレーシアにも強力なパイプス支持者が存在することを、実際に確認できただけでも大きな収穫というものです。私が見るところ、恐らく、現在のマレーシアのキリスト教関係者の中では最高の学位を有しているのに、どういうわけか目立たない質素なオフィスで一人黙々と冊子を発行し続ける傍ら、マレーシアの要人のみならず、日本人の動向にも鋭く目を光らせ、いくら表面的には非難囂々浴びていようとも、しっかと自分の目で確認してパイプス氏に賛同されているなんて、私にとってこんな力強い援軍はありません。
21日早朝の帰国直後、三週間お休みしていたパイプス先生とのメール交換が再開されました。
「お帰り。僕も三週間の中東と欧州の旅から帰ったところだよ。翻訳のことは、時間をかけなさい。決して負担になることがあってはならないからね」と、相変わらず優しいお返事。お名前を出さずに、「マレーシア華人の学者」として、Dr. Ng Kam Weng(伍錦榮博士)について、エスポジト教授とパイプス先生に関する我々二人の知見の共有を報告したのですが、基本的に、自分に対する褒め言葉の第三者による引用には反応されない謙虚な方なので、そのことには言及がありませんでした。でも、少なくとも迅速に返事をいただけたことによって、読んではくださったのだと確認できました。
もう一つ、昨日は、ありがたくも具体的な奨励と手配をパイプス先生からいただきました。これもそれも、今回の旅のおかげです。うまくいけば、新たな展開となる見込みです。そして、それによってDr. Ng Kam Wengが私に語られた「我々は彼の関心事を広く公表すべきだ」に事実上申し添えをする形になりそうなのが、最も大きな喜びです。
「来年も翻訳の続行をお許しいただけるならば」と私がおずおずと書いたところ、パイピシュ先生曰く「お許しだって?違うよ、反対に、僕にとっての特権だよ」。250本以上、興味深く、魅力的だと思った論考文を選んであるとお伝えしたら、「とっても興奮するニュースだね!」と素直に喜ばれました。これこそが、いかにもアメリカらしいのです。
それでも「アメリカ人は自分が何をしているのかわかっていない」とあなたはおっしゃいますか?
よきクリスマスの時をお過ごしください。