ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシアの東方政策の功罪

前回書いた内容(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111029)について、「国内に指導教官なし」「21年間もマレーシアについて考えていた」という点で、まさかとは思いますが、(それ程一つのことに固執する、偏狭で視野の狭い奴なのか)というような感想を持たれてはならないと考え、一言申し添えます。
実は、マレーシアの英語ニュースに、ちょうどタイミング良く、私とマレーシアの関わりを如実に示す記事が掲載されていましたので、英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20111031) に転載しておきました。ご関心があれば、どうぞご覧ください。
原文を見るとおわかりのように、辛辣なコメントが二桁ほど寄せられています。電子版なので気楽に言いたい放題。でも、私の滞在経験の感触では、ほぼ本音に近いと思われます(参照:2008年6月29日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080629))。
1981年にマレーシア政府がこの「東方政策」を採択したことによって、日本政府にとっての戦後補償も兼ねたマ日関係の蜜月が、マハティール政権時代だったとも言えます。そのピーク期の1990年4月に、なぜか院卒直後の私が、先方の意向でマレーシアに派遣されることになったわけです。日本語を教えるという業務でした(参照:2008年9月10日・2009年10月17日・2009年10月27日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091017)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091027))。
しかし、2006年に母校でご報告したように、到着してすぐに、(ここは、日本で教わったような日本語教育体制ではない。日本側の先生方は、そんなことをおっしゃらないまま、私を送り出した)と気づいたのです。
もっとも、当時のマレーシアで最高の日本語教育機関だったということは、政府プログラムでしたから、客観的に見てもうなづけます。でも、優秀な学生達は、当然のように英国や米国やオーストラリアの著名大学に送られるルートができていて、私達のようなお雇い日本人教師は、言葉は悪いですが、(おこぼれにあずかる)感じでした。もちろん、そのことを一番敏感に悟っていたのは、学生達です。「シリアス、シリアス」と、私の目の前で(マレー語がわからないと思って)喋りまくっていた、ある男子学生のことを思い出します。
(母校の先生達が、追い立てるように私に論文、論文と言っても、ここではできるはずがない)と、直感。これは今から考えても妥当だったと思います。このマハティール式発想のイスラーム的観点が、言語学的(?)に見抜けるかどうかが鍵だったからです。今でも、私が続けている研究テーマは、そもそも聖書を読んでいたから気づいた問題だと、我ながらびっくりします。
しかし、帰国してから何とか研究発表の形を取れるまでに、なぜ数年以上ものブランクがあったのか、と言えば、それだけ複数の隣接領域(マレーシア史、軍政研究史、アセアン関係、民族問題、社会言語学、人類学、東南アジア学など)を勉強する必要性に迫られていたからです。なんせ、問題意識だけはオリジナルでも、繰り返すように、当時はインターネットもなく、現地のどこの誰に問い合わせれば教えていただけるのかも「センシティヴ」の一点張りで、あちこちたらい回しされるばかりでした。しかも、一次資料がどこにあるかも皆目見当がつかず。シンガポールでさえ、あまり整ってはいなかった時代でした。
途中で、(もうやめようかなぁ)と思ったことも数えきれません。こんなに手間暇のかかる、世界中飛び回らなければならないテーマだとは、誰も教えてくれなかった、というより、自分で先におののいていたからです。
幸い、「着眼点がいい」と褒めてくださった母校以外の先生方が何人もいらっしゃったので、おだてに乗って続けてしまった、という側面もないわけではありません(参照:2007年12月11日・2011年5月19日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110519))。
もう一点、大切なのは、「マレー人が西洋を憎むのは、日本占領期に日本軍が教え込んだからではないか」という暗黙の通念のようなものが、欧米人に共有されているらしいことです(参照:2011年9月30日付「ユーリの部屋」)。だから、ニュージーランドのロックスボロフ先生(参照:2010年11月18日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101118))にお会いできた時、「シェラベア宣教師は、戦前戦時中、日本のマレー語学習者の間で有名でした」と述べた私に「ホントかね?」と、突然、目を光らせたのです(このやり取りの前後の様子は次を参照:2009年10月16日・2009年12月30日・2011年3月1日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091016)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091230)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110301))。
戦時中の日本語資料は、代表的なものにはほぼ目を通してありますから、大凡の見当はつきます。ただ、学問的に証明するとなると、これが結構難儀。だからこそ、側面から仄めかすような感じで、発表を工夫しているつもりではあります。問題は、通じているかどうか、見抜く人がいるかどうか、なのですが。