ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人脈と思想背景

昨日、ブログを無断引用させていただいた方(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170411)の前日分には、もっと明確に書かれていたので、ここに追記転載する。

http://blog.livedoor.jp/wesley1738/archives/1363899.html


2010年11月9日
「37回教団総会」


・第37回日本基督教団総会が10月26日〜28日に開催された。キリスト新聞や「総会速報」を読んだが、ひどくため息が出てくる。
・関心事は、フリー聖餐(違法聖餐)をしている北村慈郎牧師への免職戒規に関すること。
・開会後も、開会祈祷など怒号の中でなされたらしい。異常な光景だ。教団ではそれが「通常」なのかもしれないが・・・
・北村牧師の神経ってどうなってるんだろう。尋常じゃないな。北村牧師も、彼を支援してる人たちも、私には異常に見える。これらの人たちを見てると、40年前の「教団紛争」を連想してしまう。
・教団紛争と言えば、大阪万博の19時間討論が思い出される。異常な集会だった。でも、今の教団も、それほどではなくても、似たようなもののようだ。
・「教団紛争の記録を残す会」みたいなものができないかな。
・京都教区の議員は途中でほぼ全員退席してしまったみたいで、やっぱり、「同志社」系はこうなのかなと考えてしまう

(部分抜粋転載終)

結局は、こういうことなのだ。
私は自分で選んでマレーシアに赴任したのではないが、ちょうど日本経済がバブル崩壊直前のピーク時だったこともあり、今後は「アジアの時代」だと喧伝されてもいたので、二十代の体力のある時期に、二、三年、途上国で海外経験をすることは、意味があるだろうと考えた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160113)。
1990年代初頭、毎日のマレー・イスラーム環境の勤務の緊張からほぐされたのが、クアラルンプールの当時の中心街にあった、英国風英語がまだ聞かれたキリスト教会だった。そこから、欧米の宣教師達がどのように現地語かつ今では国語であるマレー語を研究し、マレー語への聖書翻訳に従事したのかに興味を持ち、調べ始めたのだった。だが、インターネットもなかったあの頃には、まともな一次資料もなく、指導してくださる教授もいらっしゃらず(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091230)、誰に尋ねればわかるのかも全く不明で、何もかも手探りで必死だった。
このテーマは一見マイナーなようだが、マレーシアならば、戦時中に日本が軍政を敷いたので、戦後育ちの日本人である私が正面から取り組むことに意味があるとも考えたのだった。それに、現地観察のみならず、文献研究も可能なので、結婚して家事育児と平行しながら、少なくとも研究発表だけは続けられるだろうと、ある程度の見通しを立てていた。
また、2003年の大学改革前には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141029)、まだ取り組む人の少なかったマレーシア研究の会には、小さくとも真剣な雰囲気があり、私の発表に対しても、「おもしろい」「興味深い」「いかにも研究って感じだな」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/201002)「たくさんやることがあって、羨ましいです」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120924)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140107)等と言ってくださる方々もいらしたので、無邪気に続ける気にもなっていた。
その調子で、日本のキリスト教会ならば、誰か資料のありかを知っている人や、このような話に興味を持つ人もいるかもしれないと思い、関西には教会が多いからと期待していたのだった。また、2004年から2007年まで、同志社大学神学部に呼ばれて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)、教えたり研究会に出席したりもした。
表面的に見れば、テーマとしては悪くはなかった。頑張れば、何とかまとめられそうだとも思っていた。

ところが、現実には、このブログで10年ほど綴ってきたような状態だった。

何が怖いって、宗教そのものよりも、そこで仕切っている人脈と思想背景がわからないことが、最も怖い。私があれこれ本や論文を読み、大学図書館で論文を複写して集めてきたのも、それを知りたかったからだ。

仮に、そういう人達がいたとしても、組織全体が繁栄して上向いているならば良いのだが、昨日のブログの統計にもあったように、急激に低下している状態である。

1949年生まれのダニエル・パイプス先生が、ちょうど大学紛争の時期にハーヴァードで小さな少数派になってしまい、友人を失って孤立したという経緯(http://ja.danielpipes.org/article/10987)に私が関心を抱いたのも、私事ながら、父方の大叔父がまさに医学部教授として大学紛争を経験したことに加え(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150215)、マレーシアと関わる自分の研究テーマが、なぜこんな風に齟齬を来たしてきたのだろうか、と疑問だったからでもある。
最初は、研究発表を続けることで、学会を通して知り合いが増えればいい、と単純に喜んでいたが、内情を知ると、それほど単純でもないとわかってきた。

私だけではない。学会からのお知らせを読むと、人の入れ替わりが結構ある。かつては有力そうに見えた方が辞めていかれて、代わりに、近隣諸国の方達が入会している。世代交代も進んでいる。