ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一つの区切りとして

もうこれで最終にしたいと思いますが、区切りとして、もう一言。この4ヶ月は、予想に反して、こんな分野に入り込んでしまったものの、おかげさまで、25年ぐらい前から、どうも気になっていた問題の原因と輪郭が、ようやく具体的に見えかけてきたように思われるのです。
表面的には、ごく小さな部分が切り口。それを、あたかも揚げ足取りのように扱っているように感じるかもしれません。そのため、外部の目から見ると、政治的な内部の権力争いみたいな、対立抗争の様相を呈しているでしょう。ただ、日本国内では小さな集団とはいえ、一種の社会問題にまで拡大し、専門家以外の一般人にも、混乱と論争を招いたということは確か。それに、幾つかの関連事項も含めて、元はと言えば、1970年前後から問題として浮上していた事柄だからです。
また、立場や見方はそれぞれ、とはいえ、物事には原則というものがあり、少なくとも長い伝統の上に成り立っていることなので、充分な立証と理由付けなしに、「海外では」とか「現代では」などという潮流に乗じて、そんなに簡単に、繰り返し人に広めてもいいのだろうか、という疑問が拭い去れないのです。
もちろん、人や社会に対して迷惑をかけなければ、見解や立場や思想は自由。それに、「嫌なら来なければい」「そんなことを言うなら、あっちに行け」ということなのかもしれません。そうです。今回の小さな調べ事を通して、すっかり幻滅してしまったというのが、正直なところ。ちょっとしたレポートができるぐらいなのですが、別に今更、私がやらなくたって、専門家の方達には、前からわかっていたことだろうと思うので、個人レベルで曖昧に示唆するのみです。逆に言えば、素人にでさえ、調べる気になれば、事の当否がすぐに明らかになってしまうということです。

終戦記念日をはさんでまたもや憂鬱になってしまったのが、同じくフランクフルトから届いた、もう一冊のドイツ語の本を読んでのこと。
フランクフルトから、と言っても(参照:2011年8月10日付「ユーリの部屋」)、前回に引き続き、実はアマゾンで注文しただけの話。もともと、ドイツのアマゾンで検索してみたところ、0.01ユーロで販売されていて、表紙を見ただけで(やめようかな)とさえ思ってしまったのですが...。
驚きました。1970年代末に、約90の共同体から4万人以上が集って共に祝われた、プロテスタント系祭典のルポルタージュ風の本だったのです。中を開くと、ニーチェとかマルクスのような固有名詞も含まれ、お客さんとして招かれた外国人労働者も排除しないという意味の文も書かれていました。これを見て、(あぁ、そういう祝祭だったんだな)と合点。
クラシック音楽の場合でも、聖霊降臨にちなんで音楽祭が開催されると雑誌に書いてあるので、多分、キリスト教系のこのような集いは、ドイツの各地で定期的に持たれているのではないか、と想像されますが、キリスト教であれば何でもいいのではなく、どのような目的で誰が集うのか、が問題。
そして、この200ページぐらいの本の中のわずか一文のみを引用して、事の論議や提言の証拠にされているのです。確かに、そのセンテンスは存在します。しかし、全体としては、殊更、当該事項について論議も提言もされていません。どうやってこの文を見つけ出して、論証とされたのか、不思議に思います。

今回、計5本のドイツ語文献資料を見てみましたが、インターネット上のドイツ語圏(ドイツ、スイス、オーストリア)の6資料とも合わせて、びっくりしたことばかり。最初は、(まさか)と信じられませんでした。(専門外のことには関わらずに、専門家や当事者に任せておけばいい)(そこまで主張されるならば、どちらの立場もあってもいいのではないか)と、初めはそれこそ軽く考えていたのですが(参照:2011年6月8日付「ユーリの部屋」)、では、(伝統的なやり方になじんできた自分が、ここで節を曲げてまで、考えを改めなければならないのか)(私はどちらの主張を信頼して選ぶのか)となった場合、困ることに気づきました。
それゆえに調べ始めてしまったのですが、今では残念ながら、その件に関しては、事がはっきりしました。そして、大げさなようですが、根の深さに戦慄するような思いもしました。

最後に一言。しばらく前からどうも気になっているのが、「多様」でありさえすれば、または、原始ないしは初代の頃であれば、果たして「豊か」と即断できるのかどうかということ。「いかなる立場も切り捨てない」というキャッチフレーズは、今回見つけた、1970年前後の事件を扱った資料にも出てきましたが、私の限られた経験では、多分、そのように主張されている方達は、私のようなタイプを受け入れたくないのではないか、と想像されること。また、何でも「先駆的」で「非欧米圏からの発言」であれば、内容を問わず、それが自動的に「貢献」と呼べるのかどうか、ということ、です。
結局のところ、何でも言ったもの勝ちの政治運動になってはいないか、という印象が否めません。だからこそ、1970年頃までは燦然と輝いていたあの動向が、その後、資金不足、人員削減、地理的な力点の移行、引いては、明らかな教会離れを引き起こしたのではないか、と。
これは、印象論で述べているのではなく、数年前に、1911年から2003年までの宣教ジャーナルについて、目を蟹の横這いのように走らせながら、ページをめくってみるという作業をした頃からの実感です(参照:2007年7月11日・2011年3月1日付「ユーリの部屋」)。