ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

文意や文脈を無視しないで

昨日、フランクフルトからドイツ語の小さな薄い本が、一冊届きました。
タイトルは控えますが、早速、目を通してみて、(なるほど、やっぱりそうだったのか)と、またもや気落ちするはめに。(だから、あそこの先生方が一団となって、我々一般人に向けての啓蒙活動に励まれていたのだなぁ)と。
数ヶ月前、特定のさしたる根拠もなく直感的に疑っていたことが(参照:2011年4月7日付「ユーリの部屋」)、残念ながら該当してしまった側面もあるという....。好奇心余ってのことであっても、結果的にアラ探しみたいになるのが、自分でも嫌悪感が募るところです。本来はそういう意図ではなかったのに、と。
確かに、書かれてあることはその通り。でも、立場や見方によって解釈が異なる問題だとはいえ、その段落あるいは項目すべてに目を通せば、文脈全体からはそうとは読めないのではないか、と。それなのに、前後がなぜか省略されたまま、一部のみが訳出され、しかも、同じような事項が列挙されているので、何も知らなかった読み手としては、(え?今はそうなの!)とびっくりさせられるのです。
それに、一冊全体の目次を拾ってみれば、当該項目は実に限られた小さな一例に過ぎず、「こういう場合も生じうるが、その際には....」ということのようです。(注)扱い程度かもしれません。最初からそのように訳されてバランスよく紹介されていたならば、こちらも何も動揺しなかったのに、と思うと、とても残念でなりません。
なんとなくの違和感というのは、こういう点から生じたもので、信頼感が揺らいでしまいます。
購読している雑誌も届きました。存じ上げるある先生が、別の方のやり玉に挙がっています。これも、違った次元で立場や見解の相違から来るものと言ってしまえばそれまでですが、何ともやりきれない気分になります。「研究者にあるまじき行為」「文意を無視した部分引用で自説を組み立てるたちのよくない人がいる」との由。
過ちは人の常で、ミスがあってはならじというのではありません。証拠を添えて間違いを指摘されたら、確認の上、すぐに訂正する勇気と正直さを持っていたいものだと願わされます。