ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

懸案事項を調べてみた結果

早くも明日から6月。今年は、新年明けからいろいろなことがありましたねぇ。
中でも最も大きかった出来事は、やはり3月11日の大震災。最近でこそ、少しは身勝手にも以前のような通常通りの暮らしに戻りつつありますが、今でも折に触れては少額ながら送金したり、ささやかにお祈りしてみたり....。祈りに意味があるのかどうかって?そういうことじゃありません。ほんの短くとも、心の姿勢をその事柄に向ける時間と意識が大切ではないかということなのです。自己満足かもしれなくとも、続けていけば、何かが少しでも変わっていくはずでは?

オーストラリアの友人からは、今も「いつもあなたのことを覚えています」とメールが来ます(参照:2011年4月4日付「ユーリの部屋」)。本当に、困った時の真の友、ですね。

しばらく日課の勉強も休んで、気になっていた懸案事項について調べていました。カタがついたわけではなくとも、これまでわけがわからず不安だったことも、少しずつわかりかけてきて、落ち着いてきたように思います。
そして今日は、久しぶりの外出。予定より30分早く到着したので、2011年5月11日付「ユーリの部屋」でご登場いただいた研究者氏とおしゃべりを楽しみました。恐らくは私と年齢が近いのではないかと思われますが、それだけに話が弾み、考え方も似ていることが再確認できて、うれしい限り。
気がついたら、何やら、ここそこのプロテスタント教会や会合などで騒がしい問題になっているらしい件についても、随分はっきりしたお考えをお持ちで、「これからは、信徒がしっかりしていなければならない」「ここは『ローマ』なんですから、そういう考えだったら、牧師には『どうぞお引き取りください』と、こちらが言います。招聘するのはこちらなんですから」など明快な態度。誠に仰せごもっとも。本当に、何事も専門家に任せきりではなく、付和雷同しない自分の考えをしっかり持てるよう、常に勉強を続けなければなりません。
(ちなみに、2月のフランス旅行の時にも、その騒動に関連する話をすると、「あ〜ら、ちっとも驚かないわよ。プロテスタントって、最初からそうだったじゃない」と、カトリックのご婦人。余裕たっぷりの様子でした。さすがはあっぱれ、カトリック、という...)
二人で話し合っていたのは、「結局、動機はどこにあるのか」「目指すところはどこなのか」という点がはっきりしていないということ。「質問してみてください」と私が促したら、本当に質問なさっていたので、これで同志感覚に一歩近づいたかな、というところ。やはり通じ合うお仲間は大事ですね。
実は私自身も、20世紀初頭の他の事項との関連で、今年初めからずっと気になっていたことがあり、自分の手持ちの英文(原)資料と照らし合わせてみても、肝心な点が抜け落ちているような、きれいに説明し過ぎているところがあるような印象を持っていました。ここが日本だから、日本向けに資料を眺めて分析するというのはわかるとしても、どこかバランスが中途半端というのか、ページ数の多かったのはイスラーム圏での伝道活動のはずなのに、それがほとんど語られないままで終わっている、という...。
もちろん、その旨、ご当事者本人にはお伝えしました。「はい、はい」とはお返事なさったものの、取り立てて訂正される節もなく、依然そのまま。多分、これまでの長年の経緯などから、心労が積もっていて面倒くさくなったのか、自己防衛意識のようなものが働いているのか、いったん公表した以上は引き下がれないからこのままにするのか、とも想像されるのですが、専門家としてはちょっと無責任かな?
ただし、そこで問われるのは、能力や力量の問題なのか、それとも、意図的な操作としてなのか、ということ。能力云々の問題ならば、ひとたびミスに気づいたら、即座に訂正する勇気と誠実さが要求されるのは当然のこと。意図的な操作としてしているなら、その理由が知りたいところですね。
ただし、私が感じているのは、(ご当人にも、何が何だかわからなくなってしまっているところがあるのでは?)ということ。もしそうだとしたら、何だか人間的には、同情したいような哀れな気もします。