ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

近い将来を案じる

昨日の午後は、某所の講演会。新聞にも掲載されていたので、もっと大勢の人達が集まるのかと思いきや、目算で約70名前後か、といったところ。
ここでの講演会は初めての参加。今まで、いろいろな場所に出かけては、さまざまな講演を聞いてはきたものの、刺激に富み、興味深いものから、あまりおもしろくないものまで、それぞれのレベルと内容。とはいえ、何事も学ぶチャンスだととらえれば、意義なしとはしません。

講師のお名前は存じ上げていた方で、やっとお顔とお名前が一致。社会面での網羅的なもので、もう少し突っ込んだ議論や分析があってもよかったかな、と。
例えば、在日ムスリムの件では、モスクやムスリム人口動態の研究報告書が、随分前にもっと詳しく何冊か出ています。(その中には、この機関で学んだことでキリスト教に幻滅し、イスラームに改宗したという日本人女性も含まれていました。しばらく前のことですが、なんと、その方の本を午前中に読んだ日の午後、ご当人に、某国立機関の入り口でバッタリ会ってしまったのです!もちろん初対面。何たる偶然、にしては出来過ぎていると思いました。)また、知り合いの研究者も、科研でハラール・フードの流通過程を調べ中だと年賀状に書いてきましたが、それも何年も前のことです。
いわゆる大衆文化における宗教表現の様態、あるいは、新興宗教や新々宗教などの動態も、ただ現実として提示するのみならず、なぜそういう場に人々とお金がたくさん集まるのか、既成の伝統宗教と何が異なるのか、今後の見通しはいかがなものか、などの話もあればよかったのではないか、と感じました。そして、ご自身の立場として、そのような状況にどう関与されていくのか、見解をうかがいたかったところです。

多宗教あるいは諸宗教の共存状況は、従来から日本では当たり前過ぎて、改めて語るのもためらわれそうな感じ。正直なところ、知っていたことと重複した面もあったために、大変申し訳なかったのですが、途中から、持参の本を読んで過ごしました。

それにしても、帰り道に考えたのは、(このままでは、研究対象としてのキリスト教はともかく、教会としての歴史的なキリスト教は、ますます偏在化、個別化、弱小化するだろう。あと10年もすれば、どうなってしまうのだろうか)ということ。私みたいなタイプは、もっとはみ出してしまって、居場所がなくなりそうです。だから、自分で自分の面倒を見るようになっていくしか、方法がないのかもしれません。
それ以上に気になるのが、今後はさらに増加すると言われている日本のムスリム人口に関して、減少が明らかなキリスト教側はどう対応するのか、という課題。数年前のこと、別の機関で「イスラーム改宗する人がいたっていいですよ」と、あっさりとおっしゃったキリスト教関係者がいらして、ちょっとびっくり。本当に実態をご存じならば、そんなに簡単に「寛容」になれる、いや、「放任」できるのか、と。
なぜかと言えば、個々の幸せなケースもあるとはいえ、中には、「ムスリムになって無気力になった」とか「外国人差別はいけないと教えられたことを鵜呑みにして、イスラームは素晴らしい宗教だと聞かされたことを信じて結婚改宗し、数年経つうちに、相手や相手の家族にも絶望した」などという悲惨な事例も見聞きするからです。特に女性にそれが顕著。悲観のあまり、命を絶ったケースもあります。あるいは、日本人ムスリムは真面目で模範的であっても、同胞ムスリムの中には、清潔感などの習慣が異なるどころか、守れない人もあったりするという、一種の「文化摩擦」もなきにしもあらず。だから、あまり簡単に結論めいた話を出さない方が、むしろ安全で正直なのではないか、と思うのです。
もう一点。「イスラームを勉強するのは、私にとって当たり前。派遣されたマレーシアでは、知らなければ仕事にならなかった」と言うと、必ず表情を苦く崩されるキリスト教指導者がいらっしゃいます。世代やご経歴から、ある面でやむを得ないことでもあり、力量や幅の問題でもあることとはいえ、これでは、現実面で対応不可能。しかも、一種の矛盾が露呈されてもいます。
あの90年代前半の、必ずしも自ら選んだのではなく、心配のあまり父に大反対されたマレーシア行きで、もっとも内的葛藤があったのが、この問題。しかし、その一方、若さからくる未知なるものへの冒険心と(知的)好奇心で克服しようとし、滞在する以上は、異文化として、知識の上からも学ぶ必要性に駆られていたという事実。そうでなければ、失礼なことにもなり、危険でもあるからです。でも、日課として聖書(とヒルティ著作)を読み、休日には教会に行っていたから、自分を何とか保てたということ、それに対する感謝の念は、今でも続いています。これは、実際に経験した人でなければわからない、独特の心理かもしれません。
そういう経験を持つ人達は、今の日本に決して皆無ではないはずなのに、もし、自分が未経験だからというので受容しかねるとするならば、指導的立場としていかがなものでしょうか。

だからこそ、キリスト教会がキリスト教会で在り続けてほしい、と切に願います。ムスリムだって、人によっては、クリスチャンがクリスチャンらしからぬことに苛立っている場合があります。「昔の宣教師達の方が、一貫して自分の使命に忠実だった。今は、表面的には‘対話’だとか‘平和共存’だとか、ものわかりのいいことを言っているけれど、本音はどうなのか」と猜疑を抱くムスリムの意見も、読んだことがあります。

結局のところ、アイデンティティや真意がはっきりしていない人に対しては、どこかいかがわしさが伴うもの。違いは違いとして、対立は対立のままに認めること。それを、なんとか‘和解’‘一致’させようと無理するならば、どこかで歪みが生まれてしまうのではないでしょうか。