ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シモーヌ・ヴェイユの論考

昨日書いた、マレーシアと日本(大阪)のカトリック大司教制度に関する派生事項です。
いわゆる「ヒエラルキー問題」を避けて通ることができないと思われるので、たまたま今読みかけている、シモーヌ・ヴェイユ(著)冨原眞弓(訳)『根をもつこと(上)』(参照:2011年2月15日・5月10日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65)から、一つのヒントになる言葉を抜き書きしてみたいと思います。

序列(ヒエラルキア


序列は人間の魂の生にかかわる欲求である。序列は上位者にたいするある種の崇敬、ある種の献身により構成される。ただしそのさい、上位者は個々の人格(ペルソナ)や彼らの行使する権力においてではなく、象徴として認知される。彼らがその身に象徴するものとは、万人の上にある領域であって、その領域は各自が同胞にたいして義務をはたすときに世界に現れでる。上位者が自己のはたすべき象徴たる機能を自覚し、この機能こそ下位者の献身がむかう唯一の合法的な対象であると認識するとき、真正なる序列が成立する。かくて真正なる序列のもたらす結果として、各自は自己の占める位置に精神的な居心地のよさをおぼえるのである。 (p.32)

この「象徴」とは、日本の現行天皇制とも関わるのではないでしょうか。
ヴェイユが「人間の魂の生にかかわる欲求」として挙げている要素には、次のようなものがあります。

「秩序」「服従」「責任」「平等」「名誉」「刑罰」「私有財産

そして、「魂の本質にかかわる欲求」としては、「安寧」「危険」の二つを挙げ、「真理の欲求は他のすべての欲求よりも神聖である」(p.57)と考えています。
彼女の論考の冒頭では、「義務の観念が権利の観念に先立つ。」(p.8)とあり、権利のみを前提にしているのではない点、注意が必要ではないかと思われます。そして、「この義務は永遠である。人間の永遠なる運命に呼応するからだ。」(p.11)ともあります。

おととい、某所で、ある妙な文章を提示されました。なぜヘンなのか、をつらつら愚考してみるに、実際には相違が存していて、互いに相補関係にあることが実質的にも生理的にも明らかなのに、それにも関わらず、形式的な「平等」と「権利」意識のみを先行させた議論が大手を振ってしまった結果ではないか、と。
ヴェイユの場合、「義務観念」を冒頭に置き、「序列」「秩序」を重視することで、論を組み立てています。私にも、その方が受け入れやすい思考です。では一体、「平等」「権利」意識のみに力点を置いた議論は、どこから発生したのでしょうか。