ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

戦後の一区切りとして

一昨日、届いた本を。

https://twitter.com/ituna4011
華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』(講談社+α文庫)酒井 美意子 https://www.amazon.co.jp/dp/4062816776/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_JkyizbTNW106T … via @amazonJP

(転載終)
著者は既に亡くなって十数年経つ。新たな時代を柔軟に受け留め、皇太子殿下の御成婚を祝福された辺りで締めとなっているが、現在の皇室全般を御覧になったら、どのような御見解を表されるだろうか。
憲法問題に絡めて考えると、確かに、著者がメディアでご活躍だった頃までは、天皇家宮内庁も今以上に遙かにしっかりとされていて、安定感があった。戦後の新しい時代に新鮮な息吹をもたらすという肯定的な路線だったと記憶する。だからこそ、敬愛を覚えつつ、安心してお任せし、国民が秩序を保ち、自由に暮らすことができたのだった。
だが、昨今の御婚約等の背景を総合すると、菊のカーテンを開け過ぎたために、国民統合の象徴としての重みが以前よりは減ってきたのではないだろうか、と感じる。日本の象徴としての天皇陛下を頂点ないしは中心に、皇族全体が国民全般の上に立っていらっしゃるならば、大学選択や御結婚等に際しては、「本人の意志を尊重」ではなく、国の歴史に及ぼす長期的影響を熟慮の上、別格の行動を期待するのだが....。
今の状態では先行き不安であるし、国民として誇りが持ちにくいというのが、正直な実感である。
勝者が敗者に意志を押しつけることによる結果は、三世代目以降に現れると私は考えている。従って、敗戦によって「民主化」され、新たな制度を受け入れた結果が、今になってこのような形で具現化しているのではないだろうか。
身分制度をなくし、皆が平等になれば、より良い社会になると思って受容したのかもしれないが、やはり伝統の重みは大切にすべきである。華族ならば自然と行動できることでも、平民ならば相当の努力を要することも多いだろう。その意味で、昭和時代には気づかなかった無理や作為の結果が、今になって現れているのかもしれない。

上記本を読み、そんなことを考えた。

昨日は、四度目の母校の同窓会に出席した(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150517)。
理系の研究成果のお話を聞くのが楽しみで、勇気を出して恒例行事としている。出席者数は前回よりも遙かに減った上、女性は私を含めて二人のみ。しかも、中国の元留学生だった。そして、同窓会の支援会員と資金が、どんどん減っているという。
今回の大学総長のお話では、「旧七帝大」で、文科省から申請書が送られなかったために資格なしとされた大学が北大と九大だった中で、我が母校はまずまずうまく乗り切っているようだ。2020年までには、従来の大学概念とは相当に異なった様態になるらしい。今では三十代の教授が多く、女性教員も増加中のようである。
何となく、もう一度人生をゼロからやり直したいような、若い世代が羨ましいような感があるが、置かれた環境の中で自分なりに精一杯だったのだから仕方がない。だが、環境を選べるとすれば、戦後思想(社会主義や平等観念や批判精神等)や戦後教育も含めて、最初から全部やり直したいことは確かである。