ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ギドン・クレーメル トリオの鎮魂歌

英語圏のニュースを見ていると、この時期に及んで、特に前途ある若い演奏家にとっては、来日を決行する気持ちが揺らいでしまうのも、ある面ではもっともなことです。いくら日本の聴衆が好きで、楽しみにしていたとしても....。(参照:2011年2月22日・3月30日付「ユーリの部屋」)
この状況では、余震がいつどこで発生するのか、おちおち出来ませんし、それ以上に、「人災」と非難されている福島原発の状態を見れば、警戒するのも無理もないことです。
ただでさえ繊細な感性を持っている音楽家、まずはご自身を大切に、と思います。
何ヶ月も前から決まっていたはずの日本ツアーを組む以上は、今のところは安全と言われている西日本だけで帰国するわけにもいかない。一回の舞台演奏会を開催するために、どれほど多くの、陰ならぬ神経遣いの人々が働いていることか。いざという時、数億もするという楽器のメインテナンスはどうするのか、保障はどうなるのか.....考え始めたら、何もできなくなってしまいます。
川崎の某ホールは、天井が落ちてきてしまいました(http://sankei.jp.msn.com/region/news/110317/kng11031721500006-n1.htm)。あそこで、これまでどの楽団や演奏家が舞台で音楽の饗宴を繰り広げてきたかを、ほんの少しでも知っている者にとっては、この写真にもびっくり仰天。一体、「日本のホールは音響が素晴らしいって、どの演奏家も言っていますよ」という話の根拠は、どこに求められるべきなのか。

1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故。ウクライナといえば、ユダヤ人共同体が存在した/するオデッサから、卓越したヴァイオリニストが数々輩出されたということでも有名。
このチェルノブイリに関して忘れられないのが、今は惜しいことに処分してしまって見つからない、毎日新聞(だったと思う)記事の夕刊コラム。確か、当時、立教大学でも教鞭をとられていたロシア文学の先生のエッセイ。
遠い記憶を辿るならば、チェルノブイリの語源を説明したところ、「さすがにミッション系の立教大学だけあって、学生の中に『黙示録』を読んでいる人がいて、『ひぇえ、気味が悪い』と声を上げた」。
インターネットで検索が即座に可能な時代のことではありません。しかも、末期とはいえ、時は冷戦時代。先生と学生のこのやりとりは、頭に染み込ませてあった古代の記述物語が、預言の的中として現実に起こった(のではないか)と解して、とかく恐怖心に駆られたという実話なのです。もちろん、指しているのは黙示録8章11節。この頃、私が読んでいた聖書は、引照付きだからという理由で『新改訳』(1973/1983年)。だって、『新共同訳』は1987年9月以降の出版なのだから。

この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」(新改訳

参考までに『新共同訳』は次の通り。

この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」

さて、ギドン・クレーメル氏。ホールで買い求めたパンフレットの裏表紙には、株式会社ミュージックプラントより、次のように記されていました。

クレーメル氏は震災直後より、「こんな時こそ日本へ行って力になりたい」と来日を希望しておりましたが、福島原発の水素ガス爆発の映像や水や食品の放射能汚染があきらかになり、海外でもチェルノブイリ級の惨事、との衝撃的な報道がなされるにつれ、何度も「来日を断念せざるを得ないかもしれない」と伝えてきました。また、彼らにはチェルノブイリで被ばくし亡くなった知人がいるとも聞いております。しかし、そのような中で来日を決意してくれたことに対して本当に頭が下がる思いでおります。」

そして、急遽ピンチヒッターとして来日を決行してくださったのは、ピアニストのヴァレリー・アファナシエフ氏(1947年モスクワ生まれ)。この方も、1974年にベルギーへ政治亡命を決断された経緯の持ち主で、今はヴェルサイユ在住。フランス語で詩作、小説も書かれるようです。
2011年3月31日付で書かれた彼の「日本に捧ぐ」(訳:尾内達也)は、以下のようです。詳細に不明な点があるのですが、「日本の友人たちと日本への強い思いを告げるメール」に添えられていたものだそうです。

「太平洋から500mほどの
小さな丘
生き残った者は
死者を探してさまよう
死者は日本の歴史 富士 北斎


老人は語った「そこらじゅう探したが
みつからなかったよ」


死者はあまなく存在し
だれもが死者である
光源氏 バッハ シェイクスピア

これに共鳴するかのような深く美しいメッセージが、ホール入り口にも表示されていました。

ギドン・クレーメル からのメッセージ


1975年来、というと35年になりますが、日本に来るようになり、その自然と文化と聴衆とわが友人たちとに親愛の想いを寄せてきました。ひとえに全てを愛してきました。


友情は、私にとって最もかけがえのないものの一つです。もし友人が困っていれば、こちらはとにかく支えたいと、手を貸そうと、力になりたいと思うのです。


ヴァレリーさんとギードレさんと私の三人が、この厳しい時にこの地に来たいと欲するのは、日本、そして近しい友人も昔からの変わらぬ聴衆の方々も含めた日本の人々について、私たちが知っているたくさんの素晴らしいことがあるからです。


音楽は計り知れないエネルギーの源です。その力は世紀を超えて及びます。
バッハ、ショスタコーヴィッチ、ブラームスといった偉大な作曲家たちについて考える時、私たちは永遠の価値とつながり、極限の混乱状態の中でも私たちを生存へとつないでくれる何か、私たちはこの世で一人ではなく、ハーモニー(調和)は今もこの世界に存在していたと教えてくれる何かに、たどり着くことができます。


バッハを聴けば、私たちは決して一人ではなく、いつも話しかけられる誰かがいます。ショスタコーヴィッチと歩めば、苦難は高い精神性と内なる強さで克服できるとわかります。


古典のみならず現代作曲家たちもまた、私たちが、たとえ命は短くとも、物質的政治的思考に囚われず、また地理的時間的境界に縛られず、“ひとつ”の世界に生きていることの鑑となってくれています。


美と情動は、テレビやインターネットよりも強く私たちを結び付けます。
私たちの耳と目が“互い”を見聞きできますように。
音の中に美しく表されたエネルギーの流れが、私たちに届きますように。
それによって私たちが、生きていると感じられるよう、互いに息し理解しあえるよう。


私たちはこの地であなたがたと音を分かち合い、癒しを必要とされるお苦しみの方々すべてに私たちの敬意と思いを表したいのです。


ギドン・クレーメル
(手書きで)                    2011年4月5日 (署名)
(ユーリ注:訳者不明)

彼が、旧ソ連で、表向き秀麗なヴァイオリン経歴を維持しつつも、社会的には過酷な迫害を受けたドイツ系(スウェーデン出自)のユダヤ人で、あくまで自由な芸術活動を追求したいという考えから、きわどい方法によって亡命に成功した人だと知るならば、上記の文章の重みが想像できるだろうと思われます。

2011年4月9日(土)の大阪を初日に設定し直した、実質5日間(福岡、熊本、名古屋、東京のサントリーホール)の‘Kammerkonzert 2011 Gidon Kremer Trio'。チェリストは、当初の予定を貫いた、リトアニア生まれのギードゥレ・ディルバナウスカイテさん。
4時開場で5時開演。通常ならば、シンフォニー・ホールは定刻主義。でも、今回は珍しく「リサーハル中」と札が下がっており、4時25分にやっとホール内へ着席可能に。外のソファーで待っていたお客さん達も、中高年が多いとはいえ、皆、例になく静かに黙っていました。
10分前に座席に着きましたが、一階席は9割方ほぼ満席と思われたものの、私達の後ろの列はガラガラ。舞台正面のパイプオルガンの席も一様に空席。二階の左右バルコニー席は、4割強ぐらいの埋まり方。

5時2分に、白シャツに黒の長いベスト、そして黒ズボンという衣装で、手に楽譜を持ったクレーメル氏が一人でご登場。いつもは、どこか飄々とした風貌で、愛嬌たっぷりなのに、今回は極めて丁重な深々としたお辞儀。
第一曲目はシュニトケの「ショスタコーヴィチ追悼の前奏曲」。録音されたテープとの一人合奏という不思議かつ前衛的な曲。非常に凝ったメロディーですが、聴いていてとても心地よい、大人の曲。
上記のパンフレットの解説を借りて、説明し直しますと、「ユーリの部屋」(2007年9月19日・9月20日・9月21日・9月23日・9月29日・10月3日・10月5日参照)でも述べたような、ショスタコーヴィチの名を象徴する‘D-S(Es)-C-H’に、バッハの綴り字‘B-A-C-H’の音型主題を組み合わせた二重カノンで、繰り返し旋律を重ね合わせて展開。最後はバッハの主題で締めくくるのだそうですが、言葉で書くとこむつかしいようでも、聞き慣れれば恐らくは、どこかしこに、なじみのある(あ!)が隠されているような曲、と言えばおわかりでしょうか。これが約8分。
続いて、またもや舞台袖からすぐに戻って来られたクレーメル氏。これは先の組み合わせ曲を引き継ぐ形で、バッハの「シャコンヌ」(無伴奏パルティータ 第2番 BWV. 1004より)。弱音はささやくように柔らかく、しかし全体として力強く深い演奏。心に染み入りました。まさに鎮魂歌ではないか、と。
第三曲目は、ピアニストと二人でご登場。ブラームスヴァイオリン・ソナタ第3番。これも有名で、私の大好きな曲。長めの調弦から始まり、途中で弓の毛が二本ほど、二回切れました。特に、第四楽章の激しさが、今のこの時期にはピッタリでもありました。ただ、ツアー初日で緊張されていたのかどうか、ピアノの音がやや強過ぎたような気もしました。なんだか(思うようにうまく弾けなくて、申し訳ない)みたいな感じでうなだれていたピアニストを、お辞儀の際、クレーメル氏が手をつないで、大らかにいたわり励ます風にも見えました。と言っても、私の勝手な想像ですが。ブラームスは25分間で、カーテンコールは2回。
そして20分間の休憩時間に、早速、マルタ・アルゲリッチとミッシャ・マイスキーのトリオとして1998年5月に東京のすみだ・トリフォニーホールでライヴ・レコーディングされたCDを一枚買い求めました。ショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲 第2番 ホ短調 op.67」とチャイコフスキーの「ピアノ三重奏曲 イ短調 op.50《ある偉大な芸術家の想い出のために》」の組み合わせで、アンコールにペーター・キーゼヴェッター作曲の「タンゴ・パセティック」という初耳の小曲が入ったものです。
第二部の二番目の曲目が、実はそのショスタコーヴィチ。チェロが、どちらがヴァイオリンかわからないぐらいの高音を奏でるのには驚きました。約30分の曲。記憶を確かにするためにも、これから繰り返し聴きます。
さて、順が逆になってしまいましたが、本来ならばこれが第一部の第一曲目にくるはずだったのであろう、ヴィクトリア・ポリェーヴァ作曲(2010年)の「ガルフ・ストリーム」。これが第二部の一曲目。真っ黒でひだの多いドレス姿のチェリストと二人でご登場。クレーメル氏は立ったままで演奏。スコア無しの日本初演だそうですが、なんのことはない、バッハ=グノーとシューベルトの「アヴェ・マリア」主題による二重奏曲。そもそも曲名はメキシコ湾流を指すそうですが、今回の震災津波前の情景を彷彿とさせると同時に、人々への深い慰めを表した、何とも粋な演出とも言えます。

アンコールは、シューマンの「カノン形式の練習曲op.56より第3番」。2分ほどの愛らしい曲で、選曲のセンスが何ともお見事。また聴きたいなという気持ちにさせられました。3回のカーテンコールがあり、三人で楽器なしのご挨拶が続いて、6時58分には終了。余韻が深く、お客さんの拍手も熱のこもったものでした。

クレーメル氏の演奏会に出かけたのは、これが二度目(参照:2008年9月23日付「ユーリの部屋」)。そして、彼のことをもっと知りたくて図書館から借りた三冊の自叙伝も、部分コピーやノートを取りながら、とても興味深く読みました(参照:2008年9月26日付「ユーリの部屋」)。なぜショスタコーヴィチなのかに関して、もしご興味があるならば、「バビ・ヤール」について書いた小さな文(参照:2009年11月10日付「ユーリの部屋」)をお読みください。
この経緯があればこそ、今回の勇気ある来日にも、深い慰めを与えられました。

発生直後の巨大津波のテレビ映像を沖縄で見た時、私の脳裏を駆け巡っていたのは、ハチャトウリャンのヴァイオリン協奏曲ニ短調の第三楽章。旧ソ連出身ということで、今回のクレーメル氏の演奏会も、さすがは、と言ってもよいのかどうか、事前に決定されていた曲目と順序を大幅に変更しての、実に深い考えの思い巡らされた銘記すべきプログラムと演奏でした。深謝。

最後に。
昨日届いたオーストラリアの友人Cさんからのメール画像添付にあったのは、次のような驚くべき奇跡です。数年前に発生したヴィクトリア州での山火事では、200名ほどが亡くなりました。もうこの土地一帯はダメかと思っていたら、ほどなくして、ゼンマイのような形をした緑の植物が生えてきたとのこと。そして今や、若緑の葉をつけた樹木に育っているのだそうです。「だから、希望を持ってね」と。
そういえば、最新号の『みるとす』(No.115)の表紙写真にも、一輪のピンク色の美しい花がけなげに咲いています。説明によれば、「昨年12月、大規模な山火事に遭ったカルメル山。焼け野原に咲いた一輪の花に復興の兆しが見える。」(目次ページ)とあります。おととい、思いがけなくいただいた編集長様からのメールには「表紙にも、鎮魂の想念を込めました」との由。
今朝読んだ聖書の箇所には、こうありました。

しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」
イザヤ書 6章13節新共同訳』より)