ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

フィラデルフィア管弦楽団の演奏

昨日のブログにも書いたように、午後2時半過ぎに家を出て、兵庫県立芸術文化センター大ホールに向かい、4時から6時10分まで、クリストフ・エッシェンバッハ指揮・五嶋みどりさんヴァイオリン・フィラデルフィア管弦楽団による演奏会を満喫しました。今もまだ感興と余韻が強くて、下手に言葉なんかで書かない方がいいようにも思うのですが、詳しくは明日、メモから補充することとして、とりあえずのご報告のみ済ませることにしましょう。
実は、帰宅したのは8時20分。それから夕食をとって、9時からN響アワーラフマニノフピアノ協奏曲第2番などが放送されていたのですけれども、ピアニストが中村紘子氏。見なければよかったと思ってしまいました。中村紘子氏のピアノリサイタルは、高校1年の時に一人で名古屋のホールへ聴きに行ったことを覚えていますが、当時は情報が極めて限られていたのと、とにかく環境が悪過ぎましたから、美人でピアノがあんなに弾けて素敵だなあ、なんて田舎者丸出しの感覚でした。しかし、さっきの映像では、音ミスが多い上に汚い打音だし、なんなんだこれは、という演奏で、指揮者の準メルクル氏が気の毒でした。それに、かつての美人もすっかり肥ってメタボそのもの。あんなにウエストが太い人だったっけ?それに、指までころころ丸くて、荒れた皺までアップされていました。それにもかからわず、背中と胸のあいた薄黄緑色のフリフリドレスだったので、基本的な感覚を疑ってしまった次第です。いくらなんでも、昔はここまでひどくなかったんじゃないか、と思うのですけれども。
...と、有名人に向かってずいぶんなことを臆面もなく書いてしまいましたが、意図しているのは、今日、この目と耳で鑑賞した音楽こそが、ゴージャスで素晴らしいの一言に尽きましたので、あまりにも落差が激しかったということです。音響も、N響は端正ですが、体格からも一回り小さい音になってしまっているので、迫力が全く違います。
昨日の雅楽はA席。それでも後ろの方の座席でした。ただ、舞台全体が広く見渡せるよい場所だったと思います。今日の会場では、C席に。2007年12月13日付「ユーリの部屋」で書いたとおり、会場ホールの会員であるはずの主人の意向で、私が電話をかけ続けてようやくとれた席がこれなのです。C席とは、4階の天井近くで、舞台全体を真下に見下ろす急勾配の席なのでした。A席が一人2万円もするとなれば、ちょっと考えてしまうのですが、東京のサントリーホールでは、今回の同じ日本ツアーで、なんとA席が3万5千円もするんですって!!
このホールは、2007年3月25日の庄司紗矢香さんと小菅優さんのデュオリサイタルの時以来ですが、今回は、お着物姿の女性も昨日よりかなり多く、いい雰囲気でした。
プログラムは、ブリテンのヴァイオリン協奏曲op.15とショスタコーヴィチ交響曲第5番op.47、アンコールはワーグナーの『ローエングリン』より第3幕への前奏曲でした。ブリテンのこの曲は、あまり演奏されないので「是非ともこの機会に」とみどりさんが強く希望し、エッシェンバッハ氏とも意気投合したために、実現したそうです。もちろん、難易度の高い技巧的な曲なのですが、とても美しく、気持ちよく聴けました。これで聴くレパートリーがまた増えたことを喜んでいます。
ショスタコーヴィチは、もう大満足。迫力満点で、旋律が実にくっきりとしていて、しかも繊細さと力強さと早いパッセージの動きがきっちり正確に出ていました。今回の演奏はこれまで聴いた第5番の中で、言うまでもなく最高でした。作曲家の意図および曲の性格が、これほどわかりやすくストレートに伝わってきた演奏は、これが初めてです。もちろん、亀山郁夫先生のテレビやご著書での解説に同意していたからでもありますが、買い求めたプログラムの解説には、あまり感心しませんでした。ヴォルコフの著作が、学問的に検証して偽書だとしても、その言わんとするところは、まったくの偽りや作りごとともいえそうにないと思われるからです。つまり、読み物として興味深く、新しい解釈を開いたという見方です(参照:2007年9月20日付「ユーリの部屋」)。それに、初演当時の解釈のように社会主義賛美の曲だとしたら、今回、アメリカで5本の指に入るというフィラデルフィア管弦楽団が、なぜ今頃になって、それも日本でわざわざ演奏する意味があるのか、疑問が残ってしまいます。やはり、曲そのものが持つ重苦しさと暗さと何度も繰り返されるモティーフのパッセージが、いわゆる二重言語を表明しているのではないでしょうか。
今日は、この辺で留めます。この続きとサイン会の話は、また明日に...。