ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

私は何処へ?

古いノートをめくっていたら、‘とんでもない’事項が書いてあることに気づきました。でも、書いた当時は、貴重な見解だと思って記したはずです(2000年9月1日から4日までに読んだ高尾利数自伝的聖書論柏書房1994年)の読書ノートから)。

キリスト教主義の大学ではクリスチャン条項あり。学内の重要な役職にはすべてクリスチャンが就く。→混乱を収拾する力を持つクリスチャンがいない


弁護しなければならない立場を持つと、学問はできなくなる(東神大の某先生)


・伝統的キリスト教に対して独自の批判的継承の仕事を展開した時、一番理解してくれるのが、神学者、次に牧師、そして教会歴の長い信徒、その次に一般信徒、最後に教会外の人々であろう、と思った。ところが実際には完全に逆だった。(八木誠一)


・東ベルリンには、シオン教会と聖マリア教会があった。前者は反体制派の拠点で、抑圧され虐げられている人々と連帯し解放する基盤。壁の崩壊後、人々が減った。これは、教会に集うということが、本質的に宗教的理由に基づいていなかったから。アレクサンダー広場にある後者は福音主義で、基本的にホーネッカー時代、政府と対立せず。観光客でいっぱいだが、救いを求める人々以外、駆け込んできた人に門を閉ざした。幻想的で懐古趣味的。

今週から始まる、まったく新しいともいえない私の勉強。あまり考えないようにしていたのですが、なんだか急に心配になってきました。大丈夫かしら?あれだけ悩み続け、逡巡したつもりでも、やっぱり不安。これ以上迷っていたら、人生が幾つあっても足りないから、思い切って踏み切ったとはいえ....(参照:2011年4月1日付「ユーリの部屋」)。
読書記録のノートを見れば、昔から結構、キリスト教や聖書関連の本に接してきたことは一目瞭然。意識としては幼稚園時代から。ということは、聖書伝統に沿えば、さまよえる40年。あらゆる面で、けじめの年。
さまざまな経緯を経て、ある程度は傾向をつかんでいるつもり。でも、先生方が、これまで「よそ者」だったはずの私の考えてきたことを、果たしてどこまで受け入れてくださるかしら?受け入れ幅はどのぐらい広いのかしら?
税金の学校ばかりで教育を受け、出身地では主にその方面で仕事も与えられてきました。基本的には、世俗の場で揉まれつつ、一般社会で通用する人間でありたいと願ってきたために、あくまで個人のプライベート面にとどめておいたつもりであっても、やはり、「しのぶれど、色に出でにけり我が...」  あ、違いました。人様から見れば、「すっごいキリスト教色、出ているよ」なのだそうです。
それに、最も心配なのが、文学部出身だということ。だから、聖書の読み方も、無意識的に、おのずと文学的なのだろうと思うのです。基本は基本として大切にしながらも、とっても自由な読み方をしているんだろうと....。自由だから、さまざまな考え方の受け入れが可能だったとも言えます。でも、先生方は、どうお考えなのかしら?わかっているようで、実は何もわかっていない(参照:2011年4月7日付「ユーリの部屋」コメント欄)。
学会はあくまで、自分のテーマと主張のご披露会みたいな面があるので、作業さえある程度しっかりやっておけば、発表はさせていただけるし、とりあえず、内面を問われることはありません。さまざまな見解を知るいい機会でもあります。でも、これからは....?
「ご指導をお願いします」と、文字通りお願いした先生のご著作リストは、お名前をかなり前から存じ上げていて、しばらく前に作ってはありました。でも実は、あまり読んでいないんです。物理的に時間がなかったせいもあります。興味関心の重点として、他を先行させていたためもあります。もちろん、これから必要に応じて、可能な限り読みます。(読んだらショックを受けていたりして....)
ではなぜ、ずうずうしくもお願いなんかできたのか?それは、先生の連続講話に共鳴する面が、要所要所であったから。面接でも(学会で知り合いの別の先生に)申しましたが、私、表面的な言葉を聞いていたんじゃないんです。こういう場だから、先生はこうおっしゃっているのであって、別の場では、恐らくはこのように話されるだろう、などと、しばらく前に、偶然にも自分で文献資料を取り寄せて、勝手に勉強していた内容と照らし合わせて、私なりに聞き分けていたつもりだったんです。だから、先生から「来ていただく分には構わないけれど、直接、私とはあまり関係ないんじゃないですか。ざっと履歴を見せてもらったけれども、お役に立てないのでは?貢献できないのでは?後で期待外れだったなんていうことになってはいけないと思った」などと言われて、とっても悲しかったなぁ。(国公立に比べて、決して安くはないお金をわざわざ払ってまで、お願いします、という覚悟にせっかくなっているのに、また追い出されるのかしら。じゃあ、私、何処へ行けばいいの)って....。
あ、思い出しました。初めての学会発表後の懇親会の時、「あなたには、ここは相応しくないですよ」と言われるのではないかと、私は恐れていました。いろいろ話した後、恐る恐る「これから私、何処へ行けばいいんですか」と尋ねた私に、ここの機関の、私よりも若い男の先生が、即座に言われたんです。「どこにも行かなくてもいい。ずっとここでやっていけばいい」と。なんてあったかい先生なんだろう、と思わずうれしくなりました。そこにも、ちょっと期待というのか甘えを寄せていたんですが....。

考え過ぎなのかもしれませんねぇ。あまりにも読み過ぎた、かもしれません。ややこしい議論を意識し過ぎてしまったのかも?「言葉の議論は、もうたくさん!」と、カトリックの友人達には伝えてあるのですけれども。

さて、そうこうするうちに、今、またもやオーストラリアのCさんから(参照:2011年4月4日付「ユーリの部屋」)、画像入りの温かいメールが届きました。「あなたのことを考えています」って。じゃあ、甘えちゃおう。これからの私の勉強、応援してくださらない?だって彼女も、シンガポールのDを通して、祈りの友なのだから。
昨夕、大阪シンフォニー・ホールで開かれた、ギドン・クレーメルと三重奏の仲間達との演奏会のことは、明日書く予定です。ヴァイオリン演奏も祈りであり鎮魂歌なのだと、しみじみ感じられた、貴重な一時でした。迷いつつも来日を決心してくださって、本当にどうもありがとうございました。