ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

即席ミニミニ同窓会

昨日の続きです。
うちの主人なんて、高校は大阪の伝統校、大学と大学院も規模が大きく有名であることは確か、アメリカ留学だって東部の世界有数のところ....人口の割合から著名人の輩出は当たり前過ぎて、話題にもならない。だから関西で、どこかうつむき加減で生きている私の気持ちがわからないんだ。毎年届く同窓会の連絡だって、冊子の厚さや体裁が全く違うんだもん。横目で見ながら、(いいもん、私は私でやっていくんだ!)と拳で涙をぬぐい(?)、机に向かう毎日....と自分を鼓舞していたのですが、わかります?この、「異文化」に生きる越境人の、ささやかな郷土愛と誇りがつぶれるような思い.....。
普段の講演会は、京都で恥ずかしくない程度の普段着で、ギリギリの時間に会場に入り、後ろの方にひっそりと座って、メモをとって黙って帰るだけ。でも今回は、学会発表の制服と化した一張羅のスーツを着込み、大学同窓会会報とサイン用の黒ボードペンを鞄に入れて、20分前には到着。写真が撮りやすいよう前の方に席を占め、わくわくしながら開始を待っていました。
お話の内容は、レポート用紙9枚に及びましたが、昨年、ヘブライ大学で受理された博士論文の要約だったようです。全体として地味で堅実、控えめながらも要所ごとに納得のいく、安定感あふれるご講演だったと思います。そうです!これこそ、名古屋の水を飲んだ者の力量。手堅い名古屋経済を支える精神的バックボーンは、ここにあるんです!
お話をうかがいながら、京大や民博や同志社の図書館で、ハートフォードの『モスレム世界』を1911年1月の初刊から一冊ずつ、書庫から出していただいては、眼を蟹の横ばいのように走らせて読みふけり、必要箇所の複写を続けた数年前の日々を思い出していました(参照:2008年4月14日・2010年10月22日付「ユーリの部屋」)。この経験、自分ではとにかく必死で、その意味がよくわかっていなかったのですが、2009年秋に、マレーシア神学院の図書室で、ニュージーランド出身のロックスボロフ先生にお会いした時にふと申し上げたら、急に表情を変えてキラリと眼が光り、「何かあれば、いつでも遠慮せず、私に連絡しなさい」(参照:2009年10月16日・2009年12月30日付「ユーリの部屋」)。
今回も、「先輩」のお話を聞きながら、おっしゃっていることのポイントを確認するのに、『モスレム世界』の日本に関する記述が彷彿としてきたんです。やはり、勉強というものは、続けてこそ意味があり、単なる同窓のよしみで要領よく安易につながろうとせず、自分で何かを築いていなければ相手にしていただけないんじゃないかな、と。
ご講演終了後、早速、蛮勇をふるい起こし、同窓会会報を片手に講師席まで歩み寄り、「すみません、先生。お話ありがとうございました。この間、会報が届いて、昨年の文化講演会の記事にびっくりしました。実は出身大学が同じなんです。私は国文で、母も英文学科卒です。こんなペンで申し訳ないんですが、会報にサインをお願いできますか」。
この度胸は、昨年夏の、佐藤優氏の講演会の頃から身についたものです(参照:2010年10月13日・10月14日付「ユーリの部屋」)。何事も一期一会。遠慮深く恥ずかしがって、後ろに下がっていたら、機を逃すばかりで人生がやせ細る。必要な糧は自分で掴み取らねば.....。特に、イスラエルに住んだ経験を持つ日本人は、絶対にどこか違うとにらんでいたので、全く意に介しませんでした。それに、昨年の講演会でも「人のネットワークを作る。自分を主張して存在感を獲得しよう。何でも聞いてしまおう」と後輩達を鼓舞されていたのですから(参照:2011年1月28日付「ユーリの部屋」)、後はこちらの素直な実践あるのみ。
人間の鍛えられ方が、ユダヤ人との交流によって変わってくるのか、それとも、もともと内に秘められていた力がイスラエルによって開花されるのか、それはよくわかりませんが、この「先輩」も、運に恵まれたのみならず、「自分でも努力した」と公言なさっていたようです。そう思います。たまたま語学力抜群の人が、何かの間違いで、地味なうちの母校に入られたのかな、などとも想像したのですが、「先輩」の世代は、確かまだ共通一次試験(1979-1989年)もなく、いわゆる一期校でも二期校でもなく、ということは、お金をあまりかけずに自分の勉強をするには、うってつけの大学でもあったわけです。
私のイメージでは、外国語学英米学科の卒業生といえば、高い語学力と国際知識を生かして、商社や貿易関係の仕事に就く人が主流ではないか、と思っていたのですが、まさか外交官試験を受ける人がいらしたなんて、想像もしていませんでした。
そういえば、学部生のある日、英米学科の科目も履修してみようと思って、高校の同級生だったマリちゃんに尋ねてみたところ、あっさり「あのねぇ、国文の人が来るとレベルが下がるから嫌だって、教授が言っていたよ」と却下。(主人に言わせると、「そういうこと言っている奴の方こそレベルが低い。僕なら相手にしないな」と断言。では、そのマリちゃんは、今いずこ?)
とにかく、愚かにも事実を確認せず、その一言を鵜呑みにしてすっかりめげてしまった私は、気を取り直して、代わりに英文学科の外国人講師による科目(英作文と英会話)を二つ履修することにしたのです。おかげさまで、イギリス人の先生の引率により、英国三週間のホームスティとオランダと旧西ドイツの文通友達の家に泊まる経験が与えられたのですから(参照:2008年2月29日付「ユーリの部屋」)、世の中、何が功を奏するかはわかったものではありません。
話を元に戻しますと、長年、外地内地での公務をこなしながらのヘブライ大学博士号なんて、輝くばかりの快挙!思わず、「名古屋の誇りです」と喜んでいたら、「先輩」からは苦笑されてしまいました。
ちょうど、昨年のヘブライ大学での博士号授与式で同席だったという、これまた、知力、体力、精神力、出産力(だってお子さんが5人も!)において、類い希なる抜群の生産性と素晴らしいパワーを発揮されている、私と同い年の女性の先生もご一緒だったので、相互に、にわかミニミニ同窓会の様相を呈することとなり、写真も撮らせていただきました。
考えてみれば、世間的には‘無名’の小規模大学だったからこそ、学科も卒業年度も違うのに、初対面でも、こうして温かく接していただけたのではないか、と。一学年40名で、文学部が4学科、外国語学部が確か3学科だったか、とにかく、猫の額のようなキャンパスで、自分の適性と明確な目的意識を持って4年間を過ごし、大きく世界に羽ばたかれた「先輩」の後塵を拝しつつ、私もこれから、もっと前向きにがんばりたいと思います。