ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

エジプト情勢の見立て

「メムリ」(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=IA66311

調査および分析シリーズ



Inquiry and Analysis Series No 663 Feb/10/2011


挫折必然のエジプト人民の蜂起
―権力と富の分配を求めるアラブ大衆の縮図―


Y・カルモン、T・クーパー、H・ミグロン(Y・カルモンはMEMRIの会長、T・クーパーとH・ミグロンはMEMRIの研究員)



はじめに


2011年1月、中東の人々が、国家の富と支配権の分け前を求めて行進を開始した。数世紀の間人民は、さまざまな寡頭独裁集団に支配され、富の分配にあずかれなかった。今回の蜂起は、チュニジアに始まりエジプトに波及した。しかしながら、ヨーロッパの人民が権力の配分を求めて闘争した時のように、支配エリートの全面的覇権に対する今回の打倒運動は、今後延々と続き紆余曲折の道をたどるであろう何度も後退をかさね、危機的状況に陥ることも予想される。この第1ラウンドーエジプトにおける現在の蜂起―は、何かを達成しないことはないだろうが、結局は失敗に終る。エジプトの軍部が権力を掌握し国富をコントロールするということである※1。


今回のこの分析では、エジプトにおける蜂起をアラブ世界全体におけるプロセスの縮図として捉え、エジプト人民の抗議は自由と民主々義を求める闘争というよりは、特典を奪われた中産階級による権力闘争、とみる。


人民放棄の原因


エジプトにおける今回の抗議デモは、次の三つの要素が引金をひいた。即ち、


1)世界的な食糧価格の上昇(これはエジプトではひとつの中心的要素であるが、チュニジアでは最重要問題である)。一般大衆の経済状態が悪化した。


2)野党勢力の完全排除。この間の選挙で野党は議会から締めだされた。与党のNDPは460議席を獲得し、野党(ムスリム同胞団だけでなく全野党が)ひとつも議席を与えられなかった。


3)チュニジアの抗議運動。人民蜂起の良きモデルをエジプト人達に提供した。


しかしながら、精査してみるとエジプトの蜂起にはもっと根本的な原因が底流している。この国と富は、何世紀も軍部寡頭独裁集団が支配してきた。今回の蜂起は、この集団から権力を奪取しようとする動きである。


エジプトは中世からマムルーク軍部寡頭独裁の支配をうけた。19世紀初めオスマントルコの任命したエジプト知事ムハンマド・アリがマムルークの支配者達を殲滅し、自分の王朝をつくった。その王朝は20世紀までエジプトを支配し、イギリスの占領下でも権力を振った。この王朝は1952年に自由将校団の革命で打倒された。そしてこの将校団自体が寡頭独裁集団となってこの国を支配し、今日まで、その富を完全にコントロールしてきた。


そのうちに中産階級が出現した。しかしながら、この階級は権力と富の分配にあずかっていない。今日中級階級は青年層で構成されている。高い失業率に苦しみ、未来に希望の持てない層であるが、教育はうけている。更に、情報通信の革命のおかげで外部の民主々義世界について知っている。


以上の状況からすると、今日の蜂起は時間の問題であった。


最初から挫折が決まっている蜂起


しかしながら、エジプトのこの蜂起が失敗することは不可避である。蜂起が失敗するのは、次の三つの理由からである。


第一、大衆は鉄の団結を誇る強力な軍部の壁に衝突している。軍部は、権力の中枢と富を独占しているのである。更に、軍に対する一般のイメージは?祖国の守護者?であり、退役軍人は戦争の英雄と称えられている。そして青年の大半は、軍が本当の敵であることを認識していない。軍は巧妙で、抗議デモの正面に警察を出しており、軍は人民の側にあり人民の味方とのイメージを保持している。


第二は、抗議デモにリーダーシップが欠けることである。状況が自然の道筋をたどるのであれば、中産階級の中から次第に指導部が芽生え、独裁政権に対する熾烈な戦いのなかで徐々に形成されていく。しかしながら、現在の大衆伝達法、特にインターネット、アルジャジーラTVそしてソシアルネットワークのおかげで、恵まれない大衆は?段階を飛び越え?て、直接革命そのものへ近づく。その結果、蜂起の最中になって初めて、指導部形成を試みているが、空しい努力である。


既存の野党勢力は時流に飛び移ろうとしている。しかしながら、彼等は抗議者を代表せず、現実には政権側と交渉する意欲を示し、革命を妨害しているのである。ムスリム同胞団に特にこれが言える。同胞団は何十年も否定されてきた合法化を求めている。ちなみに、合法化を求める動きは、アメリカに支持されている。これまでアメリカは、“非世俗”勢力を含む全野党勢力と話合うよう、エジプト政府に圧力をかけてきたのである。


第三は、経済上実践上の理由である。これによってエジプトの蜂起は失敗する。8000万の人口が、相当期間生活の停止をもたらす革命を維持するのは、不可能である。


予想される多少の成果


抗議者の明らかにした目的(ムバラクの追放と政権解体)は失敗する運命にある。しかし、蜂起の初段階で何かを達成しないわけではない。既に明らかなように、エジプトでは情報取得とデモがもう少し自由になるだろう。憲法の一部修正と長期に施行されている非常事態法の部分的撤回があるかも知れない。将来選挙があれば、議会に野党勢力が増えるだろう。ムバラク大統領は、次の任期はあきらめるだろう。任期切れの前に辞任する可能性もある。息子のガマルに大統領職を引継がせることはできない。


揺るがない軍部による支配


このような変化がありはするが、ひとつだけ変らぬものがある。軍部エリートの覇権がそうである。オマル・スレイマン、アハマド・シャフィク、サミ・アナン、フセイン・タンタウィその他軍体制派を代表する将軍達、即ちムバラクの真の息子と呼ばれる人々は権力の座に居すわり、エジプトとその富を支配し続ける。革命の失敗は、挫折した抗議者の側で暴発を起すだろう。しかし軍部は民間人ライバルを処置する方法―民主的或いは非民主的方法―を使うだろう。次の蜂起の日まで。


※1中東における最初の蜂起は今回のデモではなく、イスラエルの占領に対するパレスチナ人のインティファダ(1988年及び2000年)と言う人もいる。このインティファダは、武闘パレスチナ組織によるテロ攻撃は別として大衆の参加がみられた。これは(一国家内のセクト闘争というよりは)民族解放闘争の色彩が強かったが、それでもイスラエルの支配権に対する覇権を求める闘争と言えた。インティファダはイスラエルに一定の政治的譲歩を強要した。しかしイスラエルは支配権を維持したままである。

(引用終)