ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

見えないところにこそ

昨日は、何やら突然のように、マレーシア神学院のサクティさん(参照:2010年4月13日・11月14日・11月16日付「ユーリの部屋」)とメール交信が積み重なりました。気をよくしたのか、こちらが頼みもしないのに、結局、次から次へと、ロンドン出版のイスラームムスリムに関する電子版本が計5冊、送られてきました。その上、初めは1冊だけのはずだったボルネオ島のアングリカン教会史の本に、サバの教区の冊子および友人の聖職者が書いたという長老派の教会史の本も加わり、計3冊が郵便で送られることになりました。
外国のことを調べているのだから、当然のことながら、現地の人々がどのように自分達の教会の歴史を捉えているかを知る必要があります。ただ、私自身、最初の問題意識から一定以上の資料を収集するまで、これほど時間がかかった事実が示すように、サクティさん曰く「こういう資料の大切さに、ここマレーシアの人達はあまり関心が無いから、すぐ捨ててしまうんだよ」。だから、地元のよき協力者(それは、必ずしも職位職階が上位にありさえすればいいとも限りません)と知り合い、信頼関係を築くことが重要になってきます。
このような、地道で日の当たりにくい部分にこそ、事の真意が隠されているようにも思います。昨今では、大きなプロジェクトを立ち上げて、研究費を‘獲得’して、華やかに‘成果’を公表するというやり方が主流になりつつありますが、そうでなければやっていけない大型分野ならともかく、少なくとも私のやっていることには、現実面で合致しません。
例えば、ヒンドゥ教からイスラームへの親の改宗問題とそれに伴う子の親権争いの事例があります。いわゆる「シャマラ事例」と呼ばれる問題ですが、2004年にレジュメを作って私が授業で取り上げた際には、イスラームの研究者を目指しているという一人の男子院生が、「それがどうしたんですか」と冷ややかな応答をしたのを今でも覚えています。(「他者への共感ができず、身勝手にしか反応できないなら、研究なんて安易に志すな」と昔なら言われたでしょう。もし自分が専任とする大学だったら、そういう人を食ったような態度は、叱り飛ばしたかったのですが、よその大学だから、と遠慮したのが間違いだったのかもしれません。)実はこの事例、今でも裁判が続いています。息子二人を連れて、オーストラリアに避難しているヒンドゥ教徒の妻シャマラさんが、マレーシアに戻れば、イスラーム優位の法廷で負けるとわかっているためです。キリスト教会の指導者層は、もちろん、非ムスリムとして、シャマラさん側を支持しています。
この事例のように、6年以上も係争問題として続いているのが通常なら、いくらこちら側で「成果を早く出せ」とせかされても、できっこないのです。その意味で、私の読みは外れていなかったし、このやり方でよかったと思っています。
私が尊敬しているニュージーランドの長老派でいらっしゃるロックスボロフ先生は(参照:2008年11月8日・2009年10月16日・2009年11月6日・2009年12月30日・2010年8月26日付「ユーリの部屋」)、1980年代に、今より遙かに不便な所にあったマレーシア神学院で教鞭をとり、困難だった初期の教会史セミナーをマラヤ大学で立ち上げ、基礎的な資料集めの手法を教えてこられました。
今でも、時々マレーシアやシンガポールを訪問されて、指導に当たっていらっしゃるようですが、簡単なようでいて、一歩間違えたら後世に及ぼす影響が甚大な、このような地道な仕事をなさったことに、心から敬意を覚えます。ニュージーランドの聖書学院を定年退職して、お孫さんがいらっしゃる今でも、「自給研究者およびライター」という肩書きで、マレーシアのキリスト教とビジネスに関するリサーチを続けていらっしゃるそうです。それも、今は9ヶ月の休暇をとってイェール大学の近くに住み、学びを続けているマレーシア神学院の華人スタッフのイップさんに相談をもちかけながらのリサーチです。
先生のモットーは「私が同意しない人々を、神は祝福し給う」だそうです。多分、長年このようにご自分に言い聞かせながら、マレーシアでの仕事を続けてこられたのでしょう。何だか微笑ましく、共感しながら、自分もかくありたい、と願った次第です。