ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ここ数日の勉強から

「重たいテーマを扱ってますからね」「重要なテーマですが、これまで悩みながら研究を続けてきたのでしょう」とおっしゃってくださる日本の先生もいました。ありがたいことです。自分でも、どうしてこんなに毎日のように勉強しているつもりなのに、気が晴れず沈鬱なのか、と不思議に思っていました。性格的には、どちらかといえば、ぴしりぴしりと何事もきちんとしていないと気が済まない方だったのに、決して怠けたいわけでもないのに、マレーシアと関わって以来、そのせいにしたくはないものの、どうしてこんなに停滞しているのか、と。
ここ数日、昨年10月にシンガポールやマレーシアで購入した論文集などの本を読んでいて、何となく答えが出てきました。
1990年代前半にマレーシアで仕事をしている間に気がついた問題意識を追っかけてきた20年間だったと言えますが、客観的に見れば、現場での問題意識が先行していたものの、現象が具体的に発生するのが後になっているために、証拠となる資料や文献を探そうにも、なかなか見つからなかったということです。そして、非マレー人や非ムスリムに対する抑圧的な政策があるために、人々が積極的に関与したがらず、その筋の研究者も文献も極度に限られています。同時に、当事国の責任者は口が重く、いくらこちらがフィールドワークをしたつもりになっても、結局はたらい回し。(参照:2010年4月13日付‘Lily's Room’)そんなこんなで、時間ばかり無為に過ぎていき、精神衛生上、誠によろしくありませんでした。
また、昨年10月に偶然お目にかかったニュージーランドの先生が同意してくださったことには(参照:2009年10月16日・11月6日・12月30日付「ユーリの部屋」)、信頼できる一次資料が日本にはほとんどないために、先に進むことが困難だったということがあります。それ以上に、こんなことをやっていて、将来性があるのかどうか、という点は、本当に深刻な悩みでした。
ただ、間違って「学者」仲間だと思われると、どんなテーマを扱っていても、初対面の方から「へぇ、それはおもしろいね」と、寛大に肯定的に接していただけることも経験しました。やはり、ステータスというものは大事です。ただし、私の場合は、自分の方向性や能力を見出すのが遅れたので、この上では損をしているとも言えます。もし、今の私が二十代だったら、こういう進路を取ったのになあ、と思うこともしばしばです。
いくらインターネットで情報が「とれる」時代になったとはいえ、基礎的な文献を読み、現地での実体験を持つかどうかで、その表現の仕方が大きく異なってくることと思います。それに、今は価値階級の時代だと言われますが、価値観の合う者同士が、国境や民族を超えて親しくなれ、コミュニティをつくることが可能です。
閑話休題
バトゥマライ博士司祭の『マレーシアのイスラーム復興とイスラーム化:マレーシア人クリスチャンの応答』(1996年)というバーミンガム大学に提出した修士論文の出版を、マラッカのアングリカン教会で買ったのは、昨年10月のことです。その一ヶ月後に、マレーシア神学院の図書館スタッフであるサクティさんが(参照:2007年9月22日・11月12日・2008年2月13日・3月20日・3月25日・3月29日・5月24日・12月29日・2009年5月14日・10月16日・11月3日・11月6日・2010年3月3日付「ユーリの部屋」)、偶然にもメールをくれ、「この本をある人からもらったのだけど、うちの図書館にあるから、一部無料で送ってあげるよ」というのです。もちろん、「10リンギットでマラッカの教会内書店で買ったから、いいですよ」とありがたくも丁重にお返事しました。
この本は、タイプミスが多く、レイアウトにも変なところが散見され、シンガポール英国国教会で記念出版された割には、がっかりさせられる面もなきにしもあらずです。ただ、私が滞在当時に感じていた問題意識を、当然のことながらそのままトレースしていて、口惜しくも思いました。やはり、ふさわしい環境と適切なメンターあってこその研究だろうと思います。
このバトゥマライ博士司祭は、『アジア神学ジャーナル』にも数本の論文を掲載していて、何とかしてムスリムとクリスチャンが協和して共存することを神学的に主張しているのですが、現実面から、どうもクリスチャン達に同意しがたい点が多々あるようで、著作の割にはイポー市ないしはペラ州に留まるなど、今一つ主流になりきれない面があるようです。(ただし、2001年からはマラッカ・キリスト教会の主任司祭で、2008年には司教補佐になられました。)しかし、外国人の研究者は、論文では彼の書いたものを引用する傾向があり、そのギャップも興味深く思われます。
とはいえ、彼の書いた数冊のマレーシアの英国国教会史の本は、私にとっては大変役立ちました。誰が何を言おうと、記録として書き残しておかなければ、と意を強くしたのも、そのおかげです。

話は変わりますが、気分転換と視野を広げるために、相変わらず、近所の図書館を通じて、いろいろな本を借りて読んでいます。つい、上記のような事情から、本の返却が遅れ気味で、いつもお手数をかけてしまい、申し訳なく思っています。小さな図書館だけに、サービスが迅速で丁寧で、大抵は、館外のどんな本でも一週間以内には借りられるよう整えてくださるのは、本当に助かります。コピー機が常に稼働すること、情報アクセスに妙な制約がかからないこと、誰に対しても平等に本が読めるような環境が整えられていること、本棚がきちんと整備されていること、清潔で落ち着いた雰囲気であること、こういう、何気ない一つ一つの作業が確実になされているかどうかが、その国や社会の文化程度や質を決めているのだろうと、マレーシアでのリサーチの苦労と比較して、思います。