ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「クリスチャンであってよかった」

ツィッターhttp://twitter.com/itunalily65)に書いたパスカルの『パンセ』。私が読んだのは、前田陽一・由木康(訳)の中公文庫版1973年初版/1993年17版)です。表紙の背面には、次のようにあります。

近代科学史に不滅の業績をあげた不世出の天才パスカルが、その厳正繊細な批判精神によって、人間性にひそむ矛盾を鋭くえぐり、真の人間幸福の問題を追求した『パンセ』は、時代を超えて現代人の生き方に迫る鮮烈な人間探究の記録である。」

内容は、あえて一言でいうならば、1600年代のキリスト教弁証論の一つです。弁証論なので、キリスト教以外の宗教や「異端」とされた派の論駁を含み、それゆえに、イスラームムハンマドに対する批判および否定的評価が含まれています。
東大をやめて政治家になったある有名な方が、フランス語学習のために、夜寝る前、フランス語の『パンセ』から一文ずつ暗記した、と著書に書いていたそうです。それをインターネットで見た時、(ホントかな?もし本当だとしたら、どの箇所まで暗記したのだろう?)と疑問に思いました。というのは、全体を読み通せば、前半部を除くほとんどが、旧新約聖書の本文に基づいて、パスカル風に解釈し思索した文言を、まとまりごとに編集し直したとでも呼べることは、一目瞭然だからです。もし語学学習のために暗記するならば、『パンセ』よりも、フランス語訳聖書から選んだ句を暗記した方が、よほど応用範囲が広く、有益ではないかと思うのですが。
もっと哲学的にこむつかしいものかと思っていたので、いささか拍子抜けした『パンセ』であったとはいえ、恐らくは翻訳がこなれていて秀逸なのと、訳注が丁寧なので、読みやすかったのだろうと思いました。
なぜ、このようなことをわざわざ書いているかと言えば、今しがた届いたばかりの知人からのメールに、「クリスチャンであって本当に良かった」という言葉が含まれていたからです。20年前にクアラルンプールの日本語集会で知り合ったご年配のご夫妻で、50年以上、キリスト教一筋だった奥様が先頃、ガンで亡くなられたのですが、ご主人からの経過報告とお礼でした。通常の人間関係ならば、利害がなくなれば自然消滅してもおかしくはないのに、奥様のご病気をきっかけに、確かに共有感覚が蘇ってきて、人生で最も大切な側面について、分かち合いに預からせていただきました。ご主人によれば、キリスト教でなければ、とても耐えられなかっただろう、とのことでした。
実は、このようなことは、昔からさまざまなところで見聞してきた話です。卑近な事例では、8月の講演会でも、佐藤優氏が、お母様のご葬儀について「キリスト教でよかった」と断言されていました(参照:2010年10月13日・10月14日付「ユーリの部屋」)。確かに、スキャンダルに巻き込まれたために、やり方の是非は別として、夢中になって取り組んでいた仕事を、人生で最も脂ののった時期に中途で断罪されてしまい、人生行路の変更を余儀なくされたばかりか、世間からも、表向きはともかく、何かと疑いの目で裁かれてつらい思いをしている中で、特に晩年のお母様にとっては、ご本人以上に、心痛の極みだっただろうことと想像します。だからこそ、「キリスト教でよかった」と言えるのでしょう。
佐藤氏は、近年、自殺した某大臣から「あなたは芯が強いから羨ましい」ということを、時々見る夢の中で言われていたそうです(参照:『沖縄・久米島から日本国家を読み解く小学館2009年)p.102)。夢の中なので、当該者の主観が入っていることはさておき、私がこのエピソードから感じたのは、順境にある時には気づかなくても、いざという時に、見る人は見ていて、真価が発揮されるものだということです。
知人の話に戻りますと、残されたご主人は、残務整理のかたわら、聖書の学びを続けていらっしゃるそうです。今一時、ご夫妻で置かれた場所は異なっても、希望を共有しつつ地上での時間を過ごせるとは、確かに他宗教ではあり得ない生き方です。
だいたい、これまで私の知る限りにおいて、聖職者など役職に就いているケースを除いて、キリスト教に連なる人々が最も、定年退職後も何らかの仕事を続けたり、勉強を継続するケースが多いように見受けられます。これは、内側から自然に湧いてくるものに沿っているからではないかと、自分の経験からも考えています。
キリスト教関連の所属学会でも、毎年ずっと発表を続けていらっしゃる方が、必ず数名は含まれています。また、相当のお歳になられても、継続して硬派の著作を発行されている先生もいらっしゃいます。以前も書いたように、「毎年発表するな。ここはゼミじゃないんだ」と私に怒ってきた人がいましたが(参照:2008年3月10日・2009年9月8日付「ユーリの部屋」)、恐らく、このような世界をご存じないんだろうと思います。根本的な人生観が異なるならば、無理に合わせようとしても、所詮はエネルギーの無駄。第一、聖書翻訳や教会が直面する問題について発表しているのに、聖書を最初から最後まで読み通したこともないことが歴然としている人から、どうして筋違いのコメントをもらっておとなしくしていなければならないのでしょう。
ただ、一点だけ覚えていていただきたいのは、世の中には、上記で触れたような事実が、確かに観察できることです。これは、私自身の義務としても、申し述べておかなければならない点だろうと思っています。