ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

多様性に感じ入る

昨日は、ICUの森本あんり先生による、17世紀のニューイングランドにおけるピューリタンの「寛容」に関するご講演を聞きました。実のところ、講演というよりは、単発の特別講義を受けているような雰囲気でした。
森本あんり先生は、お名前はもちろん随分前から存じ上げていましたが、一昨年にICUで開催された学会の時、昼食の学内レストランでお見かけしたのが初めてでした。精力的にお皿の料理を口に運びながら学会プログラムを一瞥され、「よし、わかった」(何が「わかった」のかは不明)と、一言。とても精悍な印象を与える先生でした。(こうじゃなければ、やっていけないんだろうな)と近くで拝見しながら感じました。ただ、もし自分が二十前後にICUの学生だったとしたら、恐らくは最低限の接触だけで、怖くてキリスト教には近づかなかっただろうな、とも思ってしまいました。(この辺りの屈折した心理は、自分でもよく説明がつかないところです。)
その時の感触から、早口の講演なのかな、と思いきや、ゆっくりと間をあけた話し方で、予定時間のきっかり5分前に終了。質疑応答も比較的ゆったりとした時間が確保され、数名が挙手されていました。
以前ここに勤務していた先生も、一般席に座っていらして、このようなおおらかさが、恐らくはこの大学の持ち味なんだろうな、と思いました。そして、これまでの講演ではイスラーム中心だったが、今後はキリスト教を中心としていく、という挨拶も聞かれました。
さて、その後は河原町三条に出て、カトリック書房へ。先程までは、プロテスタント系大学の礼拝堂で、アメリ東海岸の会衆派やバプテストの話を聞いていたのに、その直後にカトリックとは、節操もないように思われるかもしれませんが(実際、数年前にある隠退牧師から、「あんたの人生、ぐちゃぐちゃだねぇ。何考えとるのか、ようわからん」と言われたことがあります。「ようわからん」のはこちらの方で、私にとっては、自分の人生途上に起こった出来事にただ対応しているだけなのですが、何代も続いている牧師家系にとっては、自分の系統の教会一筋で来られているために、その他一般人のあり方を認めにくいのでしょう)、東京の後藤文雄神父さまが(参照:2007年11月5日・12月11日・12月14日・12月18日・2008年1月20日・9月3日付「ユーリの部屋」)、司祭50周年記念(金祝と呼ぶ)日をこの10月末に迎えられるとのことで、お祝いカードを買いに行ったのです。
お店の入り口前には、1ヶ月以上はお風呂にも入っていなさそうな髭もじゃのおじさんが、目だけは爛々と光らせながら座り込んでいました。こういう事態を一体どのように考えればいいのか、未だに答えは出ていませんが、隣に大きなカトリック教会がそびえ立っているので、(教会なら邪険には扱わないだろう)という期待ないしは願望も含まれてのことかもしれません。少なくとも私自身に限れば、おととい、賞味期限が切れないうちに、いただきものの食品類を段ボール箱に詰めて、大阪の某カトリック系施設に送ったことだけは事実です。(なぜカトリック系施設に送るかと言えば、定期的に送られてくる報告書を見る限りにおいて、驚くほど多数の献品・献金者名が掲載されているからです。つまり、それだけ事業としても認知されているという意味です。)

....と、その人には申し訳ないけれども、取り急ぎ中に入り、まずは並べてある本などを眺めてみましたが、今回はあまり欲しいと思えるようなものがなく、お祝いカードだけに絞りました。店員係をしていた女性に尋ねると、見事にテキパキと説明され、(さすがはカトリック、日本の風習になじむような形でお祝いカードを揃えているんだなぁ)と感銘を受けました。シスター達が一枚一枚手書きで描いたというきれいなカードも並べてありました。
冒頭の「寛容論」の講演と絡めて、「あんたの人生、ぐちゃぐちゃ」と指摘された会衆派(組合教会)の隠退牧師、および、以前ご紹介した後藤文雄神父さまのカンボジアでの学校つくりの実践、これらを総合して考えると、この小さな日本におけるキリスト教の多様な側面が浮き彫りにされるかと思います。少なくとも、名古屋にいた頃、カンボジア難民の高校生の家庭教師を頼まれた(買って出た)時、非カトリックの私がカトリック教会内の司祭館に入るのを温かく歓迎してくださったのは後藤神父さまでしたし、その頃うかがったお話によれば、神父さまには日本基督教団の親しい牧師もいらしたようです。「あなたの話を聞いていると、もう、そういうことならカトリックに来なさい、と喉まで出かかっているんだけど、それだと‘お客さん’を盗ることになるからね。それに、カトリック内部でも、いろいろありますよ」とおっしゃってもいました。
マレーシアのフィールド・リサーチでも感じていることですが、カトリックの場合は温容で、プロテスタントの場合は意志力や誠実さが前面に出ているように思います。どちらがいいとか正しいとか、判断する意図は私にありません。ただ、それぞれの特徴に触れては、その多様性に深く感じ入るだけです。