ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

故グロータース神父さまのこと

というわけで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120410)、ちょっと気分転換に、昔の思い出浸りも含めて、故グロータス神父さまについて。
昨日の「ユーリの部屋」のコメント欄に書いた本とは、これを指します。実はまだ読んでいないんですが、そのうち、図書館で借りてみましょう。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101576147/subno/1

そして、次のような文章も見つけました。
http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1999/kn163b.htm

W・A・グロータス神父を訪ねて


  マタタ神父のインタビュー


先日、 東京都中野区慈生会病院に入院しているグロータス神父を訪ねました。


ロータス神父は、 1911年にベルギーで生まれ、 1932年に淳心会へ入会と同時に、 漢文や地理方言を学んできました。


そうして1941年、 司祭として中国へ派遣され、 3年後1944年にテイヤール・ド・シャルダンから霊的指導を受けました。 さらに1950年に来日してから、 兵庫県の豊岡と松原教会に住みながら、 日本各地の方言研究を行い、 方言地図を、 昨年3月まで書き続けてきました。



普通の人間として社会的な義務を担う神父


ロータス神父は、 中国を初め、 日本の国立国語研究所、 世界各地の大学などで言語学を多くの人に教えました。 北海道から沖縄まで自転車で回って日本列島の方言を学び、 日本方言地図を作りながら、 日本に芽生えていた方言地理学を成立させた人物だと思われます。 しかも神父自身としては、 普通の日本人が果たす社会的な義務を担うのは、 自らの大きな宣教活動なのだと思ったのです。


ロータス神父が司祭として問いかけてきた、 信仰生活と学問の領域との位置という課題は、 テイヤール・ド・シャルダンとの関わりによって答えが出されました。 「テイヤールは、 私を解放した」 と。 「私の専門は方言学だったので、 テイヤールのように、 神学上の重大な問題がなかったにもかかわらず、 司祭生活と学者生活を、 どのようにして一致させるかという具体的な問題は、 テイヤールの場合と同様に、 深刻で重大な要素をはらんでいた。 私にとっても、 テイヤールが青年時代に問題にしたように、 キリストに仕えることと、 世界の進歩のために働くことは矛盾しない


学問の精神を広げることは、 神の国を広げることと同じだと。 テイヤールのように、 彼はつねに、 キリストを最高の理想として仰ぎ、 学者として学問の追求を最高の目的としてきました


人間から神へではなく神から人間へ


ロータス神父の人生は、 迷路のようなものでした。 神父は自ら、 その迷路の入口から出口までの通路を次のように説明しています。 「私の人生は迷路のようなものであった。 その入り口に立ったのは、 12歳の年のある日曜日の午後、 堅信の日であったように覚えている。 私はルーブエン中学校の2階の聖堂で祈っていた。 そのとき、 イエスの招きを心に感じた。 『私を愛するなら、 私をまだ知らない国へ行って、 私を知らせたらどうか』 と、 イエスは私に問いかけた。 今、 改めて考えてみるのだが、
12歳の私が、 なぜ、 このようなことを感じるようになったのだろう。


はっきりと思い出すことのひとつは、 中学校1年の担任だった神父が、 イエスの愛について語るときの表情である。 ふだんは見せることのない燃えるような眼をしていた。 この神父とは、 個人的に話す機会は一度もなかったが、 その印象は深く私の心に残った」


イエズス会の修練期から淳心会への司祭叙階までの道、 中国での逮捕から日本に至るまでの宣教生活自体も、 彼が語る迷路の意味と深く結ばれています。 さらに神父の人生は慈しみにささえられ、 日々のミサと祈りを忠実に捧げることができました。 彼は、 「私は人間から神へではなく、 神から人間への方向で、 宗教を考えている。 至高者からの、 至高者との一致への呼びかけに答えることは、 『愛の国』 を作るために努めることなのだ」 と言っています。


日々の暮らしの意図を説いた宣教


ロータス神父は、 お年寄りばかりでなく、 若い人のためにも、 聖書の研究をほとんど毎日やってきました。 人を育てるには、 自分の思いのままに導くのではなく、 相手方の考えや思いなどを大切にしていくことが必要です。 これはグロータス神父の55年間の宣教活動の経験から反省したところなのです。 この反省について、 グロータス神父は自らの宣教活動を、 次のように語ってくれました。


 「1941年6月、 私は中国寒村の教会の助任神父に任命された。 私の役割は、 農閑期に140の村を廻り、 教会から遠くの地にあって孤立している信者の家を訪れ、 そこに一泊し、 その家族のためにミサを立てること。 またその地方の方言を習得し、 そして村の小学校の校長を務めることだった。 これらの仕事に忙しかった私は、 ますますこの地方ではいわゆる宣教活動をする機会に恵まれなかった。


宣教、 つまり新しい信者をつくるという仕事は、 もっぱら主任神父が担当していた。 2人の神父は農閑期になると、 村の小学校の父親たちを集めて、 カトリック要理を教えていた。 もし父親が洗礼を受ければ、 その家族はそろって家長の信仰をそのまま受けいれる。 こうして新しい信者の数が増える……


1950年の秋のことである。 私は日本に到着した。 最初の赴任地は兵庫県豊岡市の教会だった。 ここで、 ようやく、 キリスト教を求める人々にキリスト教の教義を説明する機会が与えられた。 30回で終了する宗教講座を開設したが、 日本語にはまだ不慣れだったので、 できるだけ黒板に漢字を書いて説明を補った。 今になって、 当時印刷して配布した講義のプログラムを改めて見ると、 これがヨーロッパの神学院で学んだ教義の内容と順番によるものであることに、 驚きを禁じえない。


1955年、 東京都世田谷区の松原教会に移ってからも、 同じように講義をつづけていたが、 6、7年経ってからは、 キリスト教入門講座は、 まず祈りから始めることにした。 第1回目は、 新約聖書マタイ6章19−34節にもとづいて、 日々の暮らしの意図、 即ち、 その日のすべてを神にささげることを説明する。 第2回目には 『主の祈り』 の説明と唱え方。


祈りをカトリック入門の最初のテーマとしたのは、 およそ、 教会に足を踏み入れようという人は、 すでに宗教の世界に何らかの期待を抱いているのだから、 哲学的な分析は必要ではないと思ったからである。 こうして、 このやりかたで、 受講者の顔が、 はじめ1、2回目は、 学校の授業を受けているような表情であったのに、 3回目頃からは、 生き生きとして神と交流がはじまったという表情に変わってくる。 このときから、 神は私の協力者となって、 講座はスムーズに進んでいった」。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/maria/newpage2_dokudokan.htm

ウィレム・A・グロータス神父のこと


  (愚老足〉と書いてグロータスと読む。



  9日、東京で88歳で亡くなったベルギー生まれのカトリック神父で言語地理学者、ウィレム・A・グロータースさんのペンネームだ。


▲「年は足りるがまだ愚かである、つまり老いてもまだ至らない」という意味だそうだ。神父で学者と聞けば、謹厳で近寄り難い人を想像するが、「私は怪人二名相」と、神父さん、ユーモアがある。



  1950年に来日し、52年から自転車で全国各地を回りだした。


▲以来、77歳になるまで自転車旅行を続けた。行っていない県はない。コースを変え て何回も行ったところもある。自転車だと本当の日本の風景や人に出会える。車ではこうはいかない。こうして得た結論は「日本人はすばらしい


▲日本語もそうだ。日本語の特徴は習得しにくい点にあるのではない。読みやすさにある。ちらりと見ただけで 素早く読み取られ、見当がつく。漢字まじりの文章がどれほど読みやすいか、確かめるには平がなだけで書いた1ページを読むだけで十分だとグロータースさんは言う 。英語やフランス語にも敬語があるが、日本語の敬語はもっと明快で見分けやすい。日本語の敬語の特徴は、未知の人や目上の人には礼儀正しい親切な態度を、対等か目下の人には無遠慮な態度をとらせる姿勢にある。日本語の特徴は、日本人の心と魂の特徴にほかならない――というのが言語の専門家でもあるこの神父の意見だ。


▲日本に来て、かれこれ50年。「すでに日本に墓も買ってある。生きて日本人になれないが死んで日本の土になる。目はアイバンクに登録してある。だれかがこの青い目を使ってくれれば、次の世代として日本に生き続けることだってできる」。グローター スさんは5月に出た「それでもやっぱり日本人になりたい」(五月書房)の結びにこう書いていた。               

                                                      1999年8月11日  

(引用終)

私達の気づかなかったような視点をご教示くださったという点で、カトリック宣教師としてのグロータス神父さまの存在は、非常に大きかったと思います。この時代がなつかしく思われるのは、恐らくは、欧州でも米国でも、古きよき時代の支柱だった、主流派キリスト教が非常に凋落していることからも来るのかもしれません。これからは、ただ元に戻せばいいというものでもなく、大変な困難と課題が待ち受けていることでしょう。
ただ、去年の2月にフランス旅行した際(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110224)、ご一緒させていただいた主人の勤務先の大先輩にあたる方が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110509)、こうおっしゃってくださいました。「今、うちの教会にはスリランカ系の神父さんが来られているけれど、戦乱の中を生きて来られただけに、人々の気持ちに非常に敏感で、とてもよい説教をされる」と。