ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

誰からも学ぶ姿勢を

今日は学会二日目。残念ながら、午前中のみで失礼しましたが、いろいろ学ぶことがあり、有意義でした。
もっとも、すべてが専門分野外なので、レジュメをもらって発表を聞くと、(若いのに、こんなに文献を引用できるなんて、すごいなあ)と圧倒されるのですが、家に帰って、もう一度レジュメを読み直すと、(だからあの先生が、このようなコメントを出されたのか)と、やや相対化できるようになります。それも自分なりの勉強です。
随分前のことになりますが、マレーシア研究会で、ある名誉教授(現在は某研究所の所長)が、「私にとっては、ベテランの発表よりも、初心者の研究発表の方が勉強になることが多い」という意味のことを会報に書いていらっしゃいました。その当時、(それは私のことを指しているのでは?)と思って、勝手に一人で喜んでいたのですが、今になると、先生のおっしゃっていたことの意味が実感できるような気もします。
つまり、若いなら若いなりの発表があり、まさに業績作りに必死になっている発表もあれば、それ以前に実質路線でいこうという立場もあり、どこか借り物のようなお行儀のいい内容もあれば、試行錯誤しながらも自分なりのものを打ち立てようとしているものもある、ということが、だんだん透けて見えてくるということなのです。
どちらが本来的なのか、と言えば、もちろん、実質路線で、たとえ無粋であってもその人なりのオリジナリティが出ているものに決まっています。インパクトがあり、おもしろいと思えるのは、そういう研究です。
では、私はどうなのか?これはもう、レベルは別として、誰がどう言おうと、少なくとも借り物だとは言えません。20年前に、何も知らなかったマレーシアに計4年間住むうちに、現場で問題意識が生まれ、専らそれだけを手がかりに、必死に答えを求めて勉強しながら彷徨ってきたからです。国内に、残念ながら師事する先生がいらっしゃらなかったし....。しかも、研究することで食べていこう、家族を養っていこう、ましてや、「私はぁ、学者だからぁ、社会的地位がぁ、高くてぇ」(←本当に、自分でこう言う人が身近にいるんです!どこからそういう、べらぼうな自信が出てくるのか不思議なのですが)などという、身の程知らずの大逸れた妄想を抱かなかったために、自由に続けてきました。ただし、結果的に続いたまでであって、いつでも葛藤の連続であったことは事実です。
司会をなさった先生のお一人は、しばらく前まで、ヘブライ語翻訳者なのだと私は思っていました(参照:2009年2月10日付「ユーリの部屋」)。それに加えて、講読中のある雑誌に書かれていたエッセイが個性的でおもしろいなあと、お名前だけは存じ上げていたのです。
この学会に入れていただき、初めてお目にかかることができました。もちろん、先生の方は私をご存じないはずです。今回判明したのは、先生は、単に楽しいヘブライ語本の邦訳をされるのみならず、相当な研究者でいらっしゃるということです。若手に対しても、「○○さんの見つけたことは何ですか」「これについては、もう証明されているのだから、証明されたことを加えないと」と鋭く指摘されていました。
先生は今、正規職には就かれていないようなのですが、それだけに、発言に味わいがあります。苦労を積み重ねた人の研究は、それなりの重さがある、とよく聞きますが、確かにそうだと思いました。そうすると、若手支援とやらで、あまりに潤沢な研究費を支給するという方式も、考えものかもしれません。お金がなくても、どうしてもこの勉強を続けたいという熱心さがあれば本物で、研究費やポストや何とか賞の獲得ばかり狙っている人の発表は、年を経るごとにつまらなくなるということは、私も実感しています。