ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

時の評価は後に変わり得る

いろいろな方に「精力的に発表していますね」「おもしろい発表でした」「貴重な研究なので、がんばってください」とよく言っていただくのですが、ありがたい反面、内心、いつも複雑な思いです。なぜならば、あまりにも脈絡のない混乱した議論が前面に出ていて、そちらの方が、世の中で一見通りがいいように思えてしまうからです。そういう時、意気消沈して憂鬱になります。
例えば、インターネットのニュースによって、20年前の現地滞在時に気づいた問題が、ようやく日の目を見るようになったのはいいのですが、そのネット・ニュースたるや、一次資料にさえ基づかない不正確なものも含まれていることが、ままあります。それにも関わらず、引用に引用を重ねると、より混乱した状況を呈することになります。
もちろん、だからといって、私の発言や書いているものが、常に正確無比だというのではありません。英語ブログは、間違いが含まれているとわかっていても、とりあえず参考までに複写掲載することもあります。また、その当時は夢中になっていて(それでいい)と思っていても、後でミスに気づくこともあります。気づいた時点で直すようにしています。もし、読まれた方でお気づきの点があれば、どうぞご教示ください。
もう一つは、マレーシアのムスリム当局のキリスト教共同体に対する対応が、これまた高圧的で不正確で乱雑であることです。単純なところでは、日本にいる私にでさえ、手元にれっきとした証拠としての一次資料があるのに、肝心の日付が間違っていたり、あることないこと、妙な理屈をつけて押してきたりするのです。
そこまでならば、「あそこは、教育水準が低いんですね」で終わってしまえるのですが、従来、それほどムスリムやマレーシアと深く長い接触を持たなかったはずの日本のキリスト教内部の指導的立場にある人々から、「イスラーム偏見をやめましょう」「イスラームに改宗する人が出てきても、私は全く問題がありません」「マレーシアって、いい国ですね」などという発言が出てくると、問題はより複雑になります。
大学も数だけは増えましたが、マレーシアの場合、マレー人が主導権を握るようになって、水準がますます下がったということは、広く指摘されてきました。ところが、「多文化主義」「文化相対主義」が世に席巻するようになると、本質的な問題の指摘よりも、いかにそのイデオロギーに順応していくかが重視されるようになったのではないか、という印象があります。
日本のキリスト教に関しても、似たようなところがあります。いわゆる「自分はリベラルだ」と誇りを持っているようなキリスト教の指導的立場にある人が、きちんとした実証もないのに、また、一般の信徒がどのように感じているかもわきまえずに、自分達の形勢が不利になるとみてとるや否や、手の平を返したように、平気でキリスト教自己批判し、「イスラームの方が寛容ですね」などと主張し始めたりします。その結果、求心力と信頼を失い、問題がより大きくなります。
「いえ、マレーシアの場合は、政策上、そうなってはいません。現地のキリスト教関係者も、とても困っていますが、長年、表向きはっきり言えなかったのです」などと私が言おうものなら、「それは一部の話を聞いているだけだ」と、あっさり遮断されてしまうこともありました。
そんな時、昨日書いたような、国文学の指導教授を思い出し、何とも懐かしく、古巣に戻りたいような気分になります。本当に厳しかったけれども、いわゆる流行り言葉の「ブレ」のようなものは一切ありませんでした。地味なようでも堅実で、だからこそ安心感と信頼感があり、真理の追求の場である学問の世界に畏敬の念を抱いたものです。ところが、後になって私が置かれた場では、真理ではなく、権力の追求の場になっていて、非常に落胆しました。
ただし、無理矢理、そういう場に身を置いてエネルギーを消耗するよりも、一人コツコツと地道に確実な道を歩んだ方が、内的充溢感があると思います。ジョン・バニヤンの『天路歴程』は、素朴な書き方だけれども、その意味で真を言い当てていると感じます。ベンジャミン・キースベリーやウィリアム・シェラベアのような少数派の敬虔な宣教師が、何とかしてマレー語に訳してムスリムに伝えようとしたのも、今の状況を見ると、素直に頷ける点があります。