ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

嘘のない生き方を

昨日の続きです。
最近の開発援助などで、一昔と違って「現場重視」が強調されるようになったのは、ようやく本道に至ったことを意味し、ありがたい限りです。しばらく前までは、本国のお偉方が、現地をろくに視察もせずに、自分達の意向で指示を出し、地元の実情にそぐわない方法で事業を進めてきたという事例をしばしば耳にしました。
それと類似した話ですが、この時期、毎年のように私が憂鬱になるのは、もう20年もマレーシアと関わってきたのに、結局のところ、何も形になっていないじゃないか、と思うからです。理由は、昨日書いたような背景があります。
若い時期に現地の大学で3年間仕事をし、その後も毎年のようにマレーシアを訪問し、何もわからなかったところから手探りで必死に模索し、現場の指導的な立場の方たちとも連絡を取り合って、現地資料も集めてやってきたことが、日本の某大学では、まるで軽視されるような目にも逢いました。また、1,2週間マレーシアに滞在しただけの人が、「マレーシアってこうでしたよ」などと、私に‘修正’を求めてくるようなこともありました。
結局のところ、政治的な力関係もあるでしょうし、その組織の世渡り的な方向性と、そもそも合わなかったのだろうとは思います。ただ、現場を知らずに、人脈で著名な方だけを呼んで講演を聞いたり、快適な部屋で、文字通りアームチェアーに座って仲間内で議論するだけが、本当に研究と呼べるのでしょうか?
数年前に経験した事例では、その大学がキリスト教系だとわかっているために、比較宗教学を援用してキリスト教に好意的な話をし、そのことで主催者から賞賛されていたマレーシアのムスリムの女性教授がいました。しかし彼女は、国に戻るやいなや「イスラーム防衛隊」のようなグループの先導をきって、国内の非ムスリムを非難し、対話も拒否したということです。実は、会合に出席していたキリスト教組織の長である参加者が、レセプションの間に、私にこっそり耳打ちしました。「彼女は、ここでは肯定的な話をするけど、国では私に直接、話しかけもしない。一度、彼女の大学に呼ばれてキリスト教の話をしたが、取り次ぎは彼女の学生がしたんだ」。果たせるかな、しばらくしてマレーシアでその人と再会したところ、「知ってるか?彼女がイスラーム防衛隊で活躍していることを」と笑っていました。
つまるところ、そういった、現地文脈における本音に近い部分は、会合ではどうでもよくて、組織にとっての思想と合致した体裁が整うことの方が重要なようです。それと、せっかくがんばって出席しても、既に知っている話が多く、その上に本当のことを言わせてもらえない雰囲気があるとしたら、どうしてそこに留まる必要があるのかとも思いました。
とはいえ、視野が格段に広がったことは事実ですし、誰が事実を勇気を持って語ろうとしているか、また、私に対してどの方が真に親切にしてくださるか、誰と根底で話が合うのか、ということが徐々にわかってきました。
それに、シンガポールやマレーシアでは、さすがに日々直面する経験が元になっているだけに、共通意識を基盤に心から率直に話せるような気の合う人々や、その誠実で着実な仕事で感動するような論文集にも出会うことがあります。そして、何も私には道が閉ざされたわけではなく、少なくとも口頭発表は、いろいろな場でさせていただいています。ここで黙ってしまったら、20年間がまるで無駄だということになりますし、自分のスタンスで続けていくことで、多少遅れたとしても、少しでも理解が広まっていくならばと願っています。
それはそうと、昨年、私が招待されて出席した会合で(参照:2009年7月4日付「ユーリの部屋」)、スピーカーだった方の翻訳が、最近出版されました。ある国のれっきとした大学の教授なのですが、どうやらその言説が怪しげで胡散臭く、本国の専門家達からは、まるで相手にされていないのだとか。けれども、私が知る限りでは、日本のさまざまな大学でも講演をされ、一部の日本人研究者に熱烈に支持されているようです。しばらく前に、全国紙でも紹介されていて、びっくりしました。
しかしながら、私が購読中の、一般向けとはいえその筋の専門的な雑誌では、その教授のことが具体的に批判されていました。私も(何だか変だな)と腑に落ちない気がしながら上記会合に出ていたので、(なるほど)と思った次第です。その雑誌編集長のブログでも、「いい加減な『トンデモ系』の本」「迷わせる悪書」だと再度非難されていました。
この例からも思うことは、あるに越したことはないのは当然のことながらも、ただ大学の肩書きがあるかどうかではなく、その人が現地文脈やきちんとした証拠としての資料に沿って事実(ないしは真実?)を語ろうとしているかどうかが重要なのであって、その観点に立つならば、必ずしも所属とは関係がないということです。
やはり、自分にも人様にも嘘のない生き方をしたいと望みます。