ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

常に開かれた態度で学ぶ

今朝見た夢は、なかなか得難いものでした。
うちの主人が、なんと、事もあろうに、あの緒方貞子先生に身の上相談もどきをしていたのです。先生も、ご多忙の中を、どういうわけか親しく相手になってくださっていました。
たまたま、その部屋を通りがかった私はびっくり仰天。恐縮のあまり、「先生、お茶をお出ししましょう。何がよろしいでしょうか」とお尋ねしたところ、「そうねぇ、コーヒーなら、○○ね」と、ブランド名を指示されました。その場所は、一階にしゃれた高級喫茶店があり、急いで階下へ降りて行くと、「あなたには、ここ、場違いなのよ」と言わんばかりの女給仕(というイメージがぴったりの人)が出てきて、ツンとすました表情で、緒方先生ご指名のコーヒー豆をひいて出してくれました。
早速私は、慎重に、しかも急いで上に持って行ったのですが、飲み物を出そうとしたら、先生がさっと立ち上がり、「あぁ、申し訳ないわね。私はこれで...」と去って行かれました。夫はと言えば、恍惚とした表情でぼんやり座っていて、一体何を相談したものやら、こちらには皆目検討がつきませんでした。
....という夢だったのですが、本当に、そういうことがあれば、いいですよね。先生とお話できるだけで、特に、当座抱えている問題に直接の回答が与えられるわけではなくとも、何となくほんわかしたいい気分になれる、という。

このところ、学会発表準備をしていて、ちょっと煮詰まってきたので、ここらで一休み、話題を転換しましょう。
昨年10月、シンガポールのトリニティ神学院の図書館に通い詰めて、論文を調べていたら、とてもうれしいテーマと出会いました。私が最も知りたかった分野の一つ、ギリシャ語とマレー語の比較研究でした。もちろん、新約文書のマレー語への翻訳が主眼です。世の中は広く、さすがに、こういう研究論文も、探せばちゃんとあるのですね。わくわくしながら、メモを取りました。ところで、日本ではそのような研究があるのでしょうか。あるなら、是非とも教えていただきたいです。ないならば、日本におけるマレーシア研究には、まだまだ開発の余地があるということです。長生きはするもの、ですね。
その著者は、大変に謙虚な方で、先駆的な著述をものされたにも関わらず、「これは導入程度の話であり、より高度な研究が続けられなければならない」と書き添えていました。こういう態度も、大変学ばされるところです。
同じ時期に、シンガポールの長老派教会でインドネシア語による説教も聞きました。とても立派な長々した内容で、暑さと疲れと人いきれとで、ちょっと眠くなりました。でも、アメリカの「イエスセミナー」に対する神学上の批判的な話などをインドネシア語で聞けるというのは、大きな喜びでした。
マレー半島でのマレー語使用教会は、私が参与観察した限りでは、プロテスタントでもカトリックでも、比較的シンプルな内容の説教が多かったように思います。ところが、シンガポールの長老派教会では、日本語に訳しても充分通用するような内容が、インドネシア語で語られていたのです。約300名ほどがぎっしり集まり、しかも、きちんとしたブレザー姿の若者も多く見かけました。
シンガポールなら、英語教会が羽振りを利かせているのかと思いきや、意外にも、言語的多様性が保持され、その質も確保されているという点が、一つの小さな発見でした。