ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

真に自己を生かすこと

「この道一筋」が尊ばれた日本社会で、仕事に熱中することは、美徳と今でも見なされるのだろうと思います。ただ、物事にはほどというものがあり、やはり、健康管理がしっかりできて、体調が整っていて初めて、充実した仕事ができるのではないか、と思っています。
10年以上も前の研究会のことですが、懇親会でいくら眠くても、最後まで先生方にお酒をつぎながら居残り、自分の発表に対する「本音」を知りたい、とがんばっていた女性がいました。めでたく彼女は、学位論文も済ませ、就職も念願通りにいったようですが、私には到底まねのできない「芸当」でした。どうして、そこまでして、先生の「本音」を聞く必要があるのだろうか、それは、本当の指導を求めるというよりも、世間体をよくして、通りをよくしたいという願望からきているのではないか、と思うのです。(余談ですが、彼女は、早々と寝た私に対して、翌朝「あ、でもユーリさんのことは、先生方、とてもほめていらっしゃいましたよ。『いかにも研究って感じがするなあ』って」と、フォローしてくれました。優しい人です。)
ある場合には、酔っぱらうほどお酒を飲んで、男の先生方と付き合っていかなければ、研究者の世界では残れない、と聞いたこともあります。その人は、その通り、どうやら実践していたようです。
それを聞いて、(や〜めた、私。そんなことしてまで、生き残りたくない。私の人生は私のもの。勉強を続けたいという内側から自然にわいてくるものを大切にしながら、自分なりの社会貢献ができれば、それで充分じゃない)と思いました。
「男社会」に混じって仕事をするのに、男性の基準に合わせなければならないとするならば、本末転倒です。男性が見落としている部分、男性ではできない側面で、女性が力を発揮してこそ、バランスのとれた社会になるのではないでしょうか。

さて、先日も書いた主人のプロジェクト(参照:2010年2月22日付「ユーリの部屋」)。普段の私は、主人の仕事に信頼を置き、必要なコミュニケーションと家事と体調管理がしっかりできることを優先しているために、ほとんど口出ししたことはありません。また、会社に私用電話をかけるということも、めったにありません。給料がもっと欲しいとか、出世して欲しいとも一度も言ったことがありません。特に、病気の診断を受けてからは、とにかくできるだけ長く、現状維持ができること、そして、自分の得意とする分野で少しでも仕事が続けられることに、力点を置いていました。
なぜならば、私にとっては、予想に反して、独身時代よりも、結婚してからの方が自分の勉強が進んだという実感があり、それはひとえに主人のおかげだと思っているからです。
ただ、ここ2週間ほどは、睡眠時間2,3時間で、お風呂にも入らず、下着も替えず、夕食どころか夜食もとらず、大事な薬も飲まずに、夜中の1時や2時、時には3時過ぎまで会社で仕事に没頭しているという異常事態でした。終電もなくなり、何度もタクシーで帰ってくるという有様。単独で残業というのではなく、どうやら数人で居残って、誰もが飲まず食わずで、必死になって締め切りに間に合わせようとしていたようです。
だから、恐らくは殺気だった雰囲気であっただろうことと、容易に想像はついたのですが、それにしても、薬を飲まないでいることが、どれほど危険なことか、身にしみて知っている私にとっては、気が気じゃありませんでした。一時は「今日は帰れない」と電話があり、徹夜までしていたのです。「過労死」「突然死」の可能性は、誰にでも起こり得ることと思い、留守番で待っているだけでも、ストレスが相当たまっていました。
そのため、お邪魔とは承知の上で、何度も「かえれコール」を。上司の方も気を遣ってくださり、ある日には「駅までこれから見に行ってきます」とまでおっしゃってくださいました。
ほんと、女性まで夜中の3時に会社で仕事しているなんて、正気の沙汰じゃありませんよ。ということがわかったのも、今回の連続「かえれコール」によってでした。
結局、昨晩は、私が殴り倒す感じで、布団に無理矢理入れ、とにかく寝かせました。本人としては、(皆ががんばっているのに、自分だけ帰るなんて)という気持ちも強く、もし私が理解のあるふりをしていたら、平気で今日も「行ってくる」と出かけていた可能性は高かったです。
でも、やはり健常者ではないのに、20代30代初めの頃の健康だった時以上に、労働時間が長いなんて、狂っているとしか思えません。社内で勤務時間に何か起こったら、それは上司の監督責任ということになりますが、上司まで必死になって、圧力と叱責を受けながらプロジェクトに取り組んでいるとするなら、やはりこれは、配偶者のつとめとして、外から引き戻しをさせ、家での体調管理に任せた方が、グループ全体としても楽なのではないか、というのが、今回、私のとった方法でした。
何の為に、私は外での仕事をやめて、家にいることにしたのか。それは、病気の性質から、そして主人の仕事の環境から、いつ何時、こういう事態が起ころうとも、無理せず対処できるような体制を整えておきたかったからです。(それは私自身の決断ですから、他者からとやかく言われる筋合いはないはずです。でも、時折ブログで、へんてこりんな発言を記しているのも、昨今、人間社会がギスギスしておかしくなっていることを、私なりに表現したかったからです。そして、できる限り、世の中にはさまざまな境遇の人がいるのだということを、理解していただきたかったということもあります。)

さて、今日は有給休暇を無理矢理取らせました。その結果は....。上司からお電話があり、プロジェクトは無事何とか終わったということでした。
それを聞いた主人は、とても寂しそうでした。「やっぱり、自分がいない方が、周囲も仕事しやすいのかな」と。
でも、私、そこで言ったんです。「そりゃ、寂しいのはよくわかる。でも、今回の件で、客観的に見たら、とにかく事故を起こさずに、ギリギリ間に合うようにプロジェクトが仕上がってよかった、と考えないと。自分がいなければ仕事が進まない、ということだったら、無理に無理を重ねて、もっと体にとって危険なことになっていたかもしれないよ。もうそろそろ、少しずつ、歳のことも考えて、自分のやることや関心をシフトしていかないと。(自分だってまだやれるんだ)と示したいのかもしれないけど、健康を害してまでする仕事じゃない。我が家は、家のローンだってないのだし、貯金だってある。身の丈で充分満足して生きていけるように、自分を子どもの頃から仕込んできたつもりだから、別にそんなに無理することないよ」。

上司の方にも申しました。「皆様のことも、心配しておりました。どうぞお大事になさってください」と。本当にそう思います。その点では、現政権には何とか「命を守りたい」を続けていただきたいものです。