ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

学的人脈の系譜に畏怖の念

まるで夢のように楽しく、さまざまな意味で学ぶところの多かった10日間の仏旅行から帰国してみると(参照:2011年2月13日付「ユーリの部屋」)、積み上がった郵便物の中に一通の封書が混じっているのに気づきました。名古屋でお世話になり、マレーシアの古く貴重な資料をどっさりとお譲りくださった国立大学名誉教授からでした(参照:2009年1月16日付「ユーリの部屋」)。
関西に住んでいると、訃報欄の記事に偏りがあり、名古屋では重鎮であっても、掲載されずに終わってしまうこともあります。お年賀状で悲しいお知らせを受け、寒中見舞いでお返事申し上げたところ、名古屋の地方新聞に掲載された訃報追悼記事のコピーを送ってくださったのでした。
2010年3月9日付「ユーリの部屋」に、先生方が主催された研究グループの学的背景を記させていただきましたので、ご興味のある方は、どうぞご覧ください。

結婚前に上記の先生から指名され、二時間も与えられて、怖いもの知らずで行った私の拙い発表に対して、さりげなく、「地獄」のマレー語訳や「敬語の疎外性」について指摘された前田惠學先生が、昨年10月末に83歳でご逝去されました。お名前からも推察されるように、仏教学の大家で、若くして日本学士院恩賜賞を受賞されています。文化功労者でもいらっしゃいました。
前田惠學先生が東京大学を受験された際、入試問題の答案採点を担当されたのが時枝誠記博士だったそうですが、実は、この時枝博士の愛弟子が、私の学部時代の指導教授だったのです(参照:2008年2月20日・2009年12月22日・2010年4月7日・2011年2月2日付「ユーリの部屋」)。というように、誇り高き関西の人々にとっては、(何やそれ?)という話であったとしても、「元名古屋嬢」の私としては、このような学的人脈の系譜に畏怖のようなものを感じつつ、遙か高く見上げながら学ばせていただきました。
現在は国立大学に移られていますが、当時、前田惠學先生と同じ仏教系大学で教鞭を執っていらした先生方の話では、「教授会の時に助教授が泣くぐらい、辛辣な発言や叱責が多かった」そうです。ご年配の先生が、権威をもって部下を厳しく鍛えるのも、確かに一つの方法ではある反面、それが若手の萎縮に結びついて、自由で新たな発想の芽を摘んでしまうとなれば、考えざるを得ません。ただし、私の場合は、女で世代が親子以上に離れていたこともあって最初からあきらめられていたのか、または、上記の先生が上手に取り持ってくださったおかげもあってか、それほど厳しいとは感じませんでした。ただ、学的指摘に関しては実に鋭く、妙な言い方ですが、どこか安心感を覚えたことも事実です。