ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

知を愛する郷土 (2)

勘違い女性って、博士号を持っている私に近い世代の人に目立ちます。主婦生活が楽しいのは、常識的に話が通じるという安心感に囲まれているからです。
別に、恨み手帳をつけているわけではありませんが、あまりに衝撃的だったので、この混迷を深めた現代日本社会で、一体、どのような恐ろしい倒錯が生じているのか、しつこいようですが、ここで数年前の実例をご紹介したいと思います。(ほんとだよ!)
欧米(とぼかしておこう)のある有名大学で博士号を授与された(本人は、「博士号を取った」と思っているらしい言葉遣いをする)女性。幼い一児を抱えて大学で働き、夫君は国内で一、二を争う国立大学の研究者だと、こちらが尋ねもしないのに「自己紹介」してきた。「先生は?」と、明らかに見下ろすような表情で尋ねてきたので、「ご主人、大切になさってくださいね。うちは、難病患者なんですよ。だから、子どももいないんです」。すると、なんという返事が返ってきたか。「それじゃ、介護しているとか?」。唖然としたのは、こちらの方。難病と言えば、即介護と貧困だと思っているのだろうか。私が、それほど年寄りに見えるのだろうか。
失礼ですが、私、小学校4年の頃からぶ厚い『家庭の医学』を読むのが趣味でしたし(参照:2007年11月7日・2009年2月26日付「ユーリの部屋」)、『日経新聞』も同じ頃、読めるページから読み始めていました(参照:2008年3月1日付「ユーリの部屋」)。(特に注意して毎日眺めていたのが、三面記事の下の死亡欄。)
町内の老人介護福祉施設にも、短期間ですが、月一度、シーツ交換のためボランティアに行っていた時期がありました。人生には何が起こるかわからないので、主人も私も、独身時代からしっかり、たとえ乏しくとも貯金だけはしてきました。いざ「首切り」にあったとしても、当座は何とか、自力で賄えるぐらいはあります。それに、主人の会社は、昨今の不況で大変は大変ですが、一応は保障制度も完備されています。MITまで会社派遣で行かせていただいていたのですから、病気になろうが、足がなくなろうが、用無しとされるまで勤め続けてお返しするのは、当然のこと。ありがたいことに、一定の割合で、主人のようなケースも雇えるような制度すら、あります。あ、誤解なきよう。これ、自慢じゃありません。(←ここまで書かないとわからなさそうなので。)
ちなみに、その女性博士のテーマは、なんと日本のカトリック作家だったそうです。内容は、たまたまインターネットで、英文で紹介されていましたが、何を隠そう、その程度ならば、我が母校(学部)でレポート扱いだったと私は思いました。(←自慢じゃないですよ。)

誘われて参加した別の会合では、ある世界的に顕著な特徴を持つ民族について博士論文を書いたという女性教員が、隣の席に座った私に勝ち誇ったように聞いてきました。「あぁ、結婚したら、もう外で働かなくてもいいと思っているんですね」。
この頃、私、大学と名のつく場所に出かける度に、頭が混乱して、小さくなって座っています。

自由の風」(一女子卒業生)(氏名は伏せる)


戦前の高等教育は、基本的には女性に門戸が開かれていませんでした。僅かに女子大学と呼ばれていた数校がありましたが、制度的には専門学校だったようです。(中略)


しかし、愛知県の(省)に対する意気込みはすこぶる高かったようです。超一流の高名な教授を大勢招聘し、開校させたのでした。恐らく全国有数の教授陣だったでしょう。劣悪な教育環境を立派な教授陣で補ったといっても過言ではないと思います。


とりわけ初代学長に人格・見識共に高い(省)先生を迎えたことは、(省)のその後の発展に多大な影響をもたらしたと思います。後年、県から家庭科の設置を求められたとき断られたと聞いたことがあります。多くの女子短大が戦前からの良妻賢母教育を目指した中で、(省)は純粋な学問の追求を志し、後の(省)の基礎を築いたと思います。


(省)の図書館の充実については、当初から識者の間でよく知られていたようです。特に国文学の優れた文献を数多く蔵している大学として有名でした。


高校での進学指導で、国文科への進学なら(省)を、と推奨する先生もありました。(中略)


例外を除けば衣服は紺色の冬服1着、夏はブラウス2着ぐらいが普通でした。国民全体がその日その日を暮らすのに精一杯の生き方を余儀なくされていましたから、お洒落どころではなく、必要最小限の衣服が当たり前でした。ナイロンストッキングが出始めましたが、高嶺(値)の花でした。


昼食も弁当持参が当たり前でした。従って学用品代と本代と交通費以外は僅かな小遣いだけで十分でした。在学中ほんの1,2度焼き芋やアイスキャンデーを買ったぐらいが贅沢でした。映画や演劇を鑑賞する学生は少なからずいて、文化的にはかなり豊かでした。(省)にくらべて地味で野暮ったいとの風評もありましたが、誰も意に介しませんでした。消費生活と無縁に学生生活を送ることができたのは、今にして思えば誠に幸福だったと思います。(中略)


オンボロ校舎で着たきり雀の学生たちでしたが、(省)は生き生きとしていました。学校にはアカデミックな雰囲気が満ち溢れていました。先生方は未熟な学生たちにも関わらず、超一流の講義を惜しみなくしてくだいました。当時には珍しい女性教授から、女の新しい生き方も身をもって教えて頂きました。


先生方は学生たちを信じ、自由にさせてくださり、学生たちも先生方の信頼に応えるよう責任を持って行動していたと思います。


大学全体に「自由の風」が吹き渡り、新しい時代に生きる我々を優しく応援し、励ましてくださっていたと思います。


憲法が施行されて4年目。憲法は必修教科で、1学年全員が講堂で講義を受けました。(省)の憲法学者だった(省)教授が、壇上の大きな黒板を前に、新憲法の理念、三権分立、議会制民主主義、男女平等、人権尊重、思想・信条の自由などを講義してくださいました。先生は、壇上を所狭しと歩き回りながら、垂れ下る長髪を掻き揚げ掻き揚げ、黒板に書きなぐるごとく文字を連ね、溢れる思いを熱っぽく訴えられました。私は、まさに目から鱗が落ちる思いで真剣にお聞きしました。


私達は(省)で新憲法の講義を受講することができました。主権者としての意識をはっきりと抱きました。この講義がその後の人生にどれほど参考になったか、はかり知れません。(中略)


10歳前後の生徒たちは素晴らしい記憶力を持っていましたが、判断力はありませんでした。


ひたすら暗記を強いられる教育で、自分で考える力を育てることは皆無でしたし、自分の意見を持つこともできませんでした。


国家による徹底した洗脳教育が施されたと知ったのは、ずーっと後でした。(中略)


初期の(省)は、価値観の大転換の時代を生きてきた世代でした。新しい時代の女性の進路の一つであった(省)時代に、自由の風を存分に吸い込んだ私たちは、当時としては恵まれた少数集団だったといえるでしょう。今なお固い友情で結ばれているのは、すさまじい時代を共有した共感からでしょう。


(省)生活で得たものは計り知れませんが、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で判断する事ができる迄には、なお時間が必要でした。


私自身は、日本中の児童が一つの価値観を押し付けられたという、恐ろしい教育体験者の一人として、教育が国家の手段として再び利用されないよう、教育に関わる運動に携わってきました。その根っこは(省)時代に培われたものです。(終)(pp.1-7)

思い出」(一女子卒業生)(氏名は伏せる)


(略)教育実習で2週間、(省)高校の定時制に行きました。研究授業で教壇に立たせてもらいました。生徒の中には、年配の人も混っていましたが、出席簿の名前を読み間違えても、拙い授業でも静かに聞いてくれた優しい生徒達でした。しかし、指導教官は、袴姿も凛々しい年配の女の先生で、いろいろ細かく指導もして頂きましたが、厳しい指摘も受け、身の縮む思いも致しました。


こうして頂いた教員免許のお陰で、その後の私の人生は豊かなものになりました。産休補助員として、中学校の教壇にも立ちました。子供が生まれてからは、在宅で出来る仕事として塾教師を22年やり、多くの生徒やそのお母さん達との交流を通して、人間として育てられました。


その塾もやめて7年になりますが、総ては短大の2年半が原点だったと思います。


今私は、生涯学習を念頭に僅かな歩みですが前向きに、老後を暮らしております。(終)(pp.8-9)

女子大草創期の国文学科」(一女子卒業生・本学元教授)(氏名は伏せる)


私と(省)との縁は、昭和31年(1956)4月に学生として入学した時に始まる。戦後の新制による中学校・高等学校も軌道に乗り、落ち着いてきた頃ではあったが、教育の方法など未だ画一的ではなく教師個人の自由に任されていた部分もあったらしく、国語の時間に「今に時枝文法になる」と、中学ですでに橋本文法以外の文法体系があることを知らされた。こんな時代ではあったが、高等学校を卒業してさらに上に進学する女性は全体の一割程だったかと思う。(中略)


すでに県一、市一といった旧制の女学校を卒業してもう一度勉強をしようという人、他大学から、他学科から、夜間からと種々経歴も違えば年令差もあるという具合で、同年令の集団とは違う刺激を多く受けた。


最初というのはどういう場合もそうであろうが、自分達がこれからを決定づけるのだと自覚する(自覚させられる)ものが暗黙のうちにあるようで、皆張り切っていた。(中略)


学者の住まいとはこういうものかとその度に天井までの書物を見上げたものであった。(中略)


東京の女高師、奈良の女高師、その中間点の愛知にそれに匹敵するような女子大学をとの目論見が開学の最初に在ったという話を耳にしたが、確かに頷ける気魄が当時の教員には観じられた。(中略)


こうして振り返ってみると、現在の教員が学界の一流を占め、学問的に高資質の人材を抱え、互いに磨き合うというのは(省)国文学科の伝統の上に乗っていることを認めざるを得ない。(中略)


現在の(省)の女性職員においても出産・育児による身体的精神的負担は決して軽いものではない。大学院も出来、社会人も多く学生として受け入れている“(省)”である。生涯発達研究所などでも本気に考え計画の中に入れられたらどうであろう。35年前にすでに試みられている実績は良い経験となって生かされるというものではないかと思う。


今にひき継がれているものは勿論のこと、単発的に見えることも、すべてが実績となって“(省)大学”の歴史を形成しているのである。そしてその歴史を私達は共有している。(終)(pp.10-12)