知を愛する郷土 (3) 恩恵の継承
よく、「あなたはどなたの指導を受けたのですか」と尋ねられることがあり、その度に身震いしていました。一方、大学院の時には、指導教官(この方は朝日新聞の編集部に所属されていた生粋のジャーナリストで、元海軍出身でした)から「ユーリさんは、古風なところと革新的なところが同居している不思議な人ですね」とも言われて、恐縮したことがあります。
今にして思えば、真の意味での「自由」を強く志向する保守リベラルな雰囲気で育った、というところでしょうか。実家では、両親から一切、進学する学部についての指図をされたことはありません。(「勉強はできて当たり前。ちっとも偉くなんかない」と、小さい時から叱り飛ばされていました。とはいえ、あまり学校の成績が良かったとは言えません。)
唯一の条件があったとすれば、幼稚園を除き、小学校から大学(院)まで地元の国公立で男女共学の課程を経ること、でした。もちろん、現役合格が前提でした。そういえば、父はよく「それなら職安(職業安定所)へ行け」と私に言っていました。(弟の場合は、「男の子はいったん外に出さなければいけない」ということで、学部からは別でした。それでも、マレーシアにいた私のところまで電話がかかってきて、「理系か文系か」という相談がありました。合格した大学についても、「慶応・早稲田か京都か」などという選択がありました。すかさず私は、自分の置かれた環境での経験から即座に、「男は理系(じゃないと就職に困る)」「勉強したいなら京都へ(その方がのびのびできる)」と‘助言’しました。)
それとて結果論であって、全くの自主性に任せられていました。(高校の進路指導の先生の方が、わけのわからない「指導」をしてきました。それが長引いた私の「混乱」の元です。現在の日本の経済格差問題と社会的混乱の不安要因は、そもそも偏差値教育の導入にあったのではないか、と考えています。ですから、その根は深く、解決は容易ではありません。せっかく2009年8月末の選挙で、遅まきながらようやく、この辺りで流れを変えようという政治的選択を我々自身がしたのですから、みずから選んだ指導者に、批判的精神も添えながら協力するのが筋であると考えます。)
一応、最終学歴は名古屋大学大学院文学研究科修士課程ということになっているので、2008年2月20日付「ユーリの部屋」を下敷きに、まずは、ホームページから複写した、次の文章をお読み頂きたく思います。父(法学部)、妹(教育学部)そして私(文学部)の母校についてです(参照:2008年10月8日・12月5日付「ユーリの部屋」)。
学術憲章(http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/declaration)
名古屋大学は、学問の府として、大学固有の役割とその歴史的、社会的使命を確認し、その学術活動の基本理念をここに定める。
名古屋大学は、自由闊達な学風の下、人間と社会と自然に関する研究と教育を通じて、人々の幸福に貢献することを、その使命とする。とりわけ、人間性と科学の調和的発展を目指し、人文科学、社会科学、自然科学をともに視野に入れた高度な研究と教育を実践する。このために、以下の基本目標および基本方針に基づく諸施策を実施し、基幹的総合大学としての責務を持続的に果たす。
1. 研究と教育の基本目標
(1)名古屋大学は、創造的な研究活動によって真理を探究し、世界屈指の知的成果を産み出す。
(2)名古屋大学は、自発性を重視する教育実践によって、論理的思考力と想像力に富んだ勇気ある知識人を育てる。2. 社会的貢献の基本目標
(1)名古屋大学は、先端的な学術研究と、国内外で指導的役割を果たしうる人材の養成とを通じて、人類の福祉と文化の発展ならびに世界の産業に貢献する。
(2)名古屋大学は、その立地する地域社会の特性を生かし、多面的な学術研究活動を通じて地域の発展に貢献する。
(3)名古屋大学は、国際的な学術連携および留学生教育を進め、世界とりわけアジア諸国との交流に貢献する。3. 研究教育体制の基本方針
(1)名古屋大学は、人文と社会と自然の諸現象を俯瞰的立場から研究し、現代の諸課題に応え、人間性に立脚した新しい価値観や知識体系を創出するための研究体制を整備し、充実させる。
(2)名古屋大学は、世界の知的伝統の中で培われた知的資産を正しく継承し発展させる教育体制を整備し、高度で革新的な教育活動を推進する。
(3)名古屋大学は、活発な情報発信と人的交流、および国内外の諸機関との連携によって学術文化の国際的拠点を形成する。4. 大学運営の基本方針
(1)名古屋大学は、構成員の自律性と自発性に基づく探究を常に支援し、学問研究の自由を保障する。
(2)名古屋大学は、構成員が、研究と教育に関わる理念と目標および運営原則の策定や実現に、それぞれの立場から参画することを求める。
(3)名古屋大学は、構成員の研究活動、教育実践ならびに管理運営に関して、主体的に点検と評価を進めるとともに、他者からの批判的評価を積極的に求め、開かれた大学を目指す。
一言申し添えると、私の限られた実体験によれば、この理念および方針は、時期や学部や専攻によってかなりの温度差があり、また、表舞台で活躍しているように見える方と、遠慮深く後ろに下がって静かにされている方の両方、そして、当座の評価と後の評価が必ずしも一致しない面があるという現実、それも併せてすべてが相補関係にあることを、見過ごしてはならないだろうと思います。
さて、私は「恩師」をまだ遠く高く仰ぎみている状態です。世代と時代の大きな違いを考慮した上でも、また、男女差を加味したとしても、恐らくは終生超えることのできない宿命にあるのだろう、と初めから感じておりました。ただ、そのようにそびえ立つ存在を仰がせていただく機会に恵まれた若い時の僥倖にも、感謝しております。このようなことは、在学中にではなく、ある程度、時が経ってから気づかされるものなのかもしれません。
その師は、上記の名古屋大学で教えていらした時期がおありのようですが、その後、私の母校(これこそ、本当の母校)に来てくださって、真剣勝負で日々、私どもの教育と訓練に当たってくださいました。
お名前はあえて伏せさせていただきますが、この内容から、すぐに直感できる方々と、今後のおつきあいを大切にさせていただければと願っております。
「『説林』の創刊について」(本学名誉教授 昭和30年10月から講師、助教授を経て平成2年3月まで教授)〔部分抜粋〕
「説林」が50号を迎え、それについて何か書くようにとの依頼があった。この創刊は昭和32年である。そしてそれには私が深く関与している。従って実情を語ろうとすれば自分の労を強調することになり、読者に聞きぐるしいとの感を与えるかも知れない。しかし当時の事実であるからお許し願いたい。(中略)
当時は、学会が親睦の会の性格を強くしていたのはどの大学でも同様で、敗戦後の日本では皆が助け合って生きて行かねばならぬ時代で、仲間の消息、交流が大切なのは当然であった。しかし、昭和30年ごろになると、それが「学会」としての性格を持つように脱皮しはじめた。そして研究誌が各大学で出されるようになった。「名古屋大学国文学研究論集」は昭和30年3月、私の在職した最後の年に発刊した。これはガリ版刷りで、教官と学生が身銭を出し合ってのものであった。(中略)
頭脳明敏、事務にも練達の人であったが、官僚色を嫌い、学問のことなら何でも許すという、広量の大人物であった。先生は、学長が何か言ってもかまわない、学科でやることは反対されないだろう、やろう、と言われた。これが「説林」の出発となったのである。(中略)
学会誌が売れるなどとは、今日では想像も及ばないが、事実、当時の「説林」はかなり売れて費用の何分の一かは還元できたのである(頒価150円)。(中略)
かくして、昭和31年発案された国文学会の「説林」は編集を始めた。国文学会の会誌であるからには、それは会員全員のもので、執筆者も教員のみならず、是非、学生も卒業生も加えるべきである。しかし学問レベルを落してはならない。そのことを強く私は主張し、皆、賛成した。創刊号には教員全員執筆とし、その外に学生の優秀な論文を選考し掲載し、この「説林」は学会費を納めた学生全員に配布することにした。会費は我々教員も負担した。今の大学の方々には不思議に思われるかもしれないが、当時は、教員は給料の外には何もなく、図書費は全学に与えられたものを図書委員会で各学科に配分するだけ、個人にはノートや文具用の極めて僅かな金額、旅費は必要に応じて支払うという状態であり、後の時代の教員研究費や学生経費というようなものはなかった。県はこの大学には大変好意的であったが、大学というものがよく分からず、高等学校と本質的に同じやり方であった。(中略)
「説林」発刊の往時を回顧すると、思い出は限りなく涌き、しかもそれを共に語ることの出来る人は殆ど無くなって、夢のようである。私はここにその僅かな一端を記したが、これとて今の人は、マサカそんな事が、と疑うことであろう。大学の備品を買うにも近くの小さな商店で教員が自由に購入したし、校舎の建築の資材などもその商売をする学生の家などから納入させた。極初期の(省)は、のどかな山村の小学校のようなやり方で通用していたように思う。そんな時に「説林」は生まれたのである。
私は国文学科の初期を知る最後の生き残りとして、「説林」のことを回想した。50年近い昔のこととて記憶の誤りも多いであろうが、今となっては確かめるすべがない。それでも大筋としては後世に伝える意味はあろうと思う。
最後にこの「説林」の創刊当時の純粋で強烈な学問的情熱について、語りたい。それは創刊号の目次をみれば歴然としている。ここにそれを示したい。
(ユーリ注:執筆者名は省略させていただき、タイトルのみ記します)
・論文
「人麿と神話」「筑前国志賀白水郎歌十首第六歌私見」「古今集仮名序文体考」「源平闘諍録による平家物語古態の探求」「愚管抄に於ける『道理』ということ」「近代和歌ところどころ(一)」「杜子春伝について」「栄華物語とその史実について」「係結の表現よりみたる今昔物語の文体」
・資料
「余裕派文学書目解説」「続日本紀宣命国語索引稿(上)」「雑報・後記」ここで注目すべきは、さきにのべたように、教員のみならず学生の論文を2編のせていることで、国文学会の会誌としての名実を示しているのであるが、その論文は短大の卒業論文でありながら、極めて優秀なことである。たとえば、(省)氏の論文について言えば、この論文は当時学界で注目され、このために「説林」を注文された方もあり、今昔物語研究文献目録には後々まで基礎的な文献として掲載されているのである。たった2年の在学で、しかも索引もなく、資料も乏しい時代に、昔の短大生は実に素晴らしいものを仕上げたと驚くが、そうした学生を育てた当時の国文学科を覆っていた学問に対する燃えさかる情熱を、今更懐しく回想する。「説林」の初期のころに載っている学生の論文は、右の(省)氏のもののみでなく、学会で注目され、学術研究に寄与したものが多い。そしてそれは、(省)の存在を全国に知らしめることになったのである。それから45年、日本は急速に発展し、生活も向上し、往時の貧しさは想像も及ばぬものとなり、大学も女子大の10年を経て(省)として変貌したが、国文学科の歩みはどのようであったか。その一端は「説林」が示しているであろう。世の中が変り、学問研究の在り方が変化しても、苦難な時に生れ、学科の全員が一生懸命に支えた「説林」の純粋な情熱は絶やさないで欲しい。それが良き伝統を生かす道であると、老人の私は祈るのである。
(付記)岩波書店発行の雑誌『文学』昭和33年4月号に、「説林」の創刊号が1ページ半にわたり、詳細に紹介されている。今では想像も出来ないことである。これは当時私の友人が岩波に勤めており、また(省)学長が岩波の古典文学大系の刊行の中心メンバーでもあったので、紹介、宣伝を依頼したのであった。少々長いが記念すべき記事であるのであえてその全文を付載する。[以下略]
(略)無数の数字と表とで出来ているこうした論文を読むと、具体的に文体について一つの結論を出すということがいかに根気と綿密な頭を必要とするかがよくわかるが、著者のこうした努力の結論をいかに文学研究の面に吸収するかが将来の課題であろう。
たとえば、筆者はひかえ目に(略)と結論しているが、この結論をたとえば、(略)などを解く鍵として、どう評価するかが問題なのである。(終)
[これは、(省)大学国文学会発行の説林〈50号記念号〉(平成14年3月刊)に寄稿されたものを筆者の許しを得て転載させていただいたものである。]
(pp.13-18)
以上、著作権等の問題もあろうかと存じますが、事前に許可をいただくことなく、無断で引用したことをお許しください。今のような時代に、どなたでも、パソコン検索で偶然目に入る可能性に期待しつつ、ご紹介させていただきました。