知を愛する郷土 (4) 奨励
母校(学部)の諸先生方および卒業生諸氏が綴られた2003年の文集から、最後に、私が最も好きな文章をご紹介させていただきましょう。
こういうことを、さらりと楽しげに書ける先生は、私の学生時代には、もっと多かったように思います。だから本を読むのが好きでした。けれども、ふと気がつくと、今では、何やら叫んでいるような、恥も分も知らないような妙な文章が目につくようになりました。「今は自己主張の時代だから、売り込みをかけないと」とでも思っているのでしょうか。外聞はどこへ消えたのでしょうか。
かくいう私も、このブログその他で、そのようになっている面が多々あるだろうことと、承知しています。
時代の変遷のせいにしてはならないとは思うものの、筆力不足と、黙って淡々としていると、本当にズカズカと踏みつぶされそうな気がすることが増えたために、こちらも愚かな便乗をすることになったのですが、これも生存競争のならいなのでしょうか。
「思い出(自分史)」 (本学名誉教授 一般教育学科(化学))
「運・根・鈍」という言葉がありますが、それを絵に画いたような人間が私であると思っております。一見不都合と思われることが起こっても、後でそれが必ず好都合の種になるのです。(中略)
この留学の際にも私の強運が発揮されます。最初に申し込んだ東部の有名大学から断られましたが、これが大変良かったわけです。二番目に申し込んだ南部ルイジアナ州ニューオーリンズ市にあるチュレーン大学からは二つ返事で採用されました。そこでその後の終生の研究課題となる磁気化学の問題と取り組むことになります。丁度その頃、二核銅錯体の特異な磁性の問題が研究者の注目を惹き始めておりました。教授からこの分野の総説を纏めることを命じられ、その論文が米国化学会の総説誌、ケミカルレビュース(1964, No,2)に受理され掲載されました。この論文によって磁気化学の分野で私が後年世界的に知られた存在になるとは当時思いも及びませんでした。1983年米国のiSiから、この論文の引用回数が500回を越えたので、同社の“CURRENT CONTENTS”の“This Week’s Citation Classic”へ掲載したいのでこの論文成立に関するコメントを送るようにとの依頼がありました。(中略)
驚いたことに、化学の分野における多数回引用の論文は私の論文以外には1編(345回以上引用)京大から発表されたものがあるだけでした。(中略)
誠に信じ難いことは、化学の分野で東洋一の最高引用回数の論文が文科系女子大学の一般教育の教官によって発表されたということです。これは公平に考えて極めて異例なことです。何故このような信じ難いことが起こったのか、一重に私の運の強さにあったと思います。最初申し込んだアメリカ東部の一流大学に私が採用されていたら、このような幸運には巡り合えなかったはずです。この大学から断られて本当に良かったのです。論文の価値を決める重要な要素の一つとして自然科学の場合特に時間の問題があります。あの論文の発表が若し一年遅れていたら、あの論文の価値は低くなり、とても数百回以上の引用回数には至らずiSiからの依頼も無かったと思います。(中略)
私が赴任した当時の(省)学長が新年会の後廊下ですれ違った際、私を呼び止めて「貴方のような方は別の大学へ移籍される機会が多いと思いますが、なるだけこの大学に止まって欲しい」と言われたことを今もよく覚えています。しかし、有り体に申しますと、結果論も含めて文科系女子大学の一般教育という職場は私に誠にぴったりの職場でした。(中略)
願ってもないことでした。私は自分に直接所属する学生を持たなくとも、私の研究上のアイディアはすべて(省)によって実現したのです。私は学生の就職などの面倒を見るという私の性分として大変嫌なことと無関係でいることができ、専ら自分の研究課題のことだけを考えておればよかったわけです。(省)先生は私が提案したアイディアに一切異論を挟まれることなく何時も直ちにそれを実験で確かめ、その結果を速やかに連絡して下さいました。(中略)
あの時点で米国に留学し、あの総説を発表したことが、その後の私の研究生活にどれほど多くのものを齏らしたか計り知れないものがあります。正に強運であったとしか言い様がありません。(中略)
以上、私の研究について申し上げてまいりましたが、大学の教員としての重要な責務の一つは申すまでもなく教育です。私は大学の一般教育教員として教育の義務を十二分に果たしてきたと思っております。休講はよほどの理由が無い限りするべきではないと思っておりました。私の休講は学会発表が運悪く授業と重なった時だけだったと思います。一般教育の目的は、それぞれの教官が自分の専門分野の材料を使って物の考え方を教えることにあると思っております。授業には絶えず工夫を凝らし、より良い授業になることを目指して努めてまいりました。それに加えて、私は自分の授業を思う存分楽しんだのです。講義のノートを片手に教室へ向かう時、私の心は何時もうきうき弾んでおりました。学問とはどういうものか、物事の本質を理解することの重要さを化学の材料を使って学生に伝えることの楽しさ。とりわけ、受講生の中にお気に入りの女子学生がいるときなど、傍目にはわからなくとも、本当はその学生一人を感激させることを願って一生懸命講義に励んだのです。こんな楽しく有り難いことはありません。高額の給料を支給されて、自分の好きなこと(研究)を自由気儘に堪能でき、あまつさえ可愛い女子学生を相手に漫談を交えた講義を存分に楽しむことができたのですから。
化学という自然科学の専門分野の研究者でありながら(省)大学という文科系大学の一般教育の教員として自分の半生を終えることができる幸いに私は何時も感謝していたのです。若し私が総合大学の自然系学部の専門分野の教員として研究生活を送ったとしますと、上で述べた、質の高い研究業績を挙げることができたかどうか疑わしいと思います。(中略)私が研究室のしがらみを全く持たず、自由度の極めて高い文科系大学の一般教育の一教員であったからです。世間一般の目から見れば大学の中で一段と格の低い一般教育の教官という身分が逆に自分の研究上必要な共同研究を自由闊達に行なうことを可能にしてくれたわけです。勿論、共同研究で良い関係が成立するためには何時も運が大きな役割を果たします。(中略)
私には名園長(迷園長ではありません)という噂が流れたのです。どうして貴方は幼稚園でそんなに評判がいいのかと聞かれたことがありました。理由は簡単で、私は事実上幼稚園の園長室の椅子に座ったことがなかったからです。(中略)
私の役割は職員会で紅茶を飲みながら洋菓子を食べることだけでした。ときたま何か意見を求められれば、内容の理解の有無に拘らず、「そのお考えはいいですね」と言っておれば良かったわけです。これが名園長と呼ばれる所以のからくりです。かなり高額の管理職手当てを支給されていましたから洋菓子を買う出費など私には誠に微々たるものだったのです。幼稚園長の私は園児にはもてもての存在でした。たまに幼稚園に参りますと可愛い園児(必ず女の子)が走ってきて「園長先生抱いて!」と飛び付いてくるのです。「あんなうら若い女性に抱いてと言われて男冥利に尽きます…」と言ったところ児童教育の女性教官に腹を抱えて笑われたことがありました。遠足の際には園長は必要不可欠な存在になります。園児は園長先生に手をつないでもらって歩くのが大好きです。子供を持たなかった私にとって幼稚園の遠足は誠に楽しい行事でした。(中略)
この自分史を総括する言葉は“妄言多謝”あるのみです。(pp.41-46)