ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

思い出すことども―恩恵の伝達―

私の属するある学会の会報で、「三歳(児)神話」の呪縛にのってしまい、その結果、三人の子育てが長引いて自分の研究が遅れた、という反省を書かれていた女性研究者について知りました(もっとも、ご謙遜であることは承知の上です)。別の学会では、学会会場に子ども預かり場を設けて、学生アルバイトに格安で面倒をみてもらえる制度を設けたとも聞きました。(その学生達が、どのような資格を持っているのかは不明です。)
たまに雑誌などを立ち読みすると、「大変だけど、母親である私が好きなことをして生き生きしていれば、子どもにも必ず伝わると思う」などと、非常に一方的な思い込みが書かれていることにも気づきました。(子ども自身に聞いてみなければ、本当のところはわからないじゃないですか。)
マレーシアから帰国して一年間、名古屋大学留学生センターで非常勤講師をさせていただいた頃、4歳の女の子を持つ年上の女性講師が、熱の出たその子をテレビの前に座らせて、お菓子をたくさん並べ、玄関の鍵をかけて、数時間、仕事に出てきたと話しているのを耳にしました。途中で具合が悪化したら、いったいどうするのだろうか。その子は、一番必要な時に見捨てられたと感じないだろうか。仕事はよくできて、そんな大胆なことをするような感じの人に見えなかったので、さらに驚きました。

最も圧倒されたのは、まだ充分復興しているとは言えないカンボジアに、まだ歩けるか歩けないかの自分の子を連れて日本人研究者未踏の地へフィールドワークに行き、しかも、子どもは途中で発熱した、という話を、昨年あたりの学会で、直接聞いたことです。「その時、霊は生きていると思いました」と語られたものの、私にとっては無茶無謀だとしか思えませんでした。

私自身を振り返ってみれば、かなり幼い頃の記憶がしっかりと残っていて、それを祖母や母に話すと、「それは2歳前のことだよ。よく覚えているね」「そんな昔の小さい時のこと、まだ話せるの?」と、びっくりされました。私が特別だとは決して思いません。「三歳児神話」は神話ではなく、実話だと私は思っています。
弟のことは、実は私が名付け親で、おむつを替えたり、ほ乳瓶で飲ませたりもしていましたから、赤ちゃんがどのような成長を辿るのか、だいたい覚えています。
小さい子どもとは、親の前で口では強がっていても、本当は依存心が残っているものだということを学んだのも、母の代理で、密かに弟を保育園に迎えに行った時のことです。私は中学生でした。あれほど朝には「うん、ぼく、一人で帰れるよ」といばっていたのに、制服のまま見に行くと、なんと弟は、亀の子のように、一人だけ首を伸ばしてこちらを向いて、必死な表情でお迎えを捜しているのです。お母さん方の中から私を見つけると、先生に挨拶もせず、一人で走り寄ってくるので、早速「先生にさようならしていらっしゃい」と注意しましたが、帰り道には、しっかりと私の手を握って離さず、弟は一人でしゃべり通しでした。
ある時など、「男の子でしょ!」と(私に)叱られ、「がんばるぞぉ!」と力を込めて叫んだ直後に、がんばりきれないことに自分で気づいて、(うぇ〜ん)と弟が泣き出したことも覚えています。
さてここで、なつかしい学部の先生の文章を、またここで一部ご紹介しましょう。別学科の男性教授が書かれたものです。

赴任して」(教授名は伏せさせていただきます)


(略)私が赴任してきたのは、1959(昭和34)年のこと。古い兵舎をおもわせる平屋の木造の建物が、そのまま研究室や教室に使われていた。昼間部は短大から女子大になっており、はなやいだ学生たちの名古屋弁は、私にはフランス語のように美しく感じたものであった。
通称松下村塾と呼ばれた古いちいさな建物があり、その前には埴輪の置かれた小さな池があった。そこはちょっとした学生たちの憩いの場所であり、パン屋のおじさんは毎日のように、昼食時にそこでパンを売っていた
。(中略)


また、新しい大学は、広く地域に開かれた大学でなければならない。地域の生活・産業・文化とどのように結びつき、地域の文化を向上させるために、どういう役割をはたさなければならないか。これらの重い課題を荷ないながら、私たちの新しい大学づくりがはじまろうとしている。(中略)


ごしょうちのように、今度の15号台風、つまり伊勢湾台風は、一挙に7,800年前の海岸線を出現せしめるという海水の暴挙をあえて行わさせた。南・港・中川・熱田・瑞穂・中村の六区にまたがった名古屋市(じつに市全体の3分の1にあたる)から木曽川の河口にわたる広い領域を、水底にかくしたのである。
9月26日の夜、この台風は名古屋港が満潮になろうとする時刻に訪れ、その弱々しい堤防をやすやすとのりこえる高潮をつくった。「東海地区は大丈夫だ」というそれまでの甘い考えを自然の力が一挙に吹きとばしたのである。死者五千人というおどろくほどの人命がこれによって失われた。
それでも、かろうじて死をまぬがれた人々は、泥水の中を安全な場所を求めて集っていた。学校はそうしたものの一つである
。(中略)


「私たちはすすんでいいことをやってゆきたいのです。そしてそれを市(つまり公的機関)のルートにのせるのです。」と(省)は言っていた。「市のルートにのせよう」というのが(省)の合いことばのようだ。つまり、救援活動をひろげることと、そのための物質的裏づけを、権利として公的機関から獲得すること、という意味なのである。大新聞が、あのカビくさい「官民一体」のシンボルを使いまわっているとき、私ははじめてここで憲法25条の精神がまだ死んでいないことを発見した。(中略)


学生の活動は、いずれも学期末の休みを利用して行われたのである。(中略)


(省)教授はいう。「この活動がいよいよ必要とされるときに、授業や試験との板ばさみができてくる。それをなんとか克服しましょう。」(中略)


午前9時半、予定の時間をすこしすぎると、トラックが学生を15,6名のせてやってきた。さっそく、それにテントその他の品物を積みこむ。「ふちに腰かけちゃいけない、すわって、すわって」と運転台から、一人の男がどなる。学生にしては年をとりすぎているな、それにしても学生らしい元気さをもっている、と思った。あとでわかったことであるが、この男は名大助教授(独文学)で、救援活動の陣頭にたっていることがわかった。
トラックには、名大の学生ばかりでなく、京大薬学部の新聞部の連中が多勢のっていた。「カンパがあまり集まらなかったので、実際の写真をとっていってみせようと思って…」とひかえめに語っていた
。(中略)


一人の婦人が、みんなのところには物資がとどくが自分のところにはマッチ一本とどいていない。今日もぬれたふとんに手をこまねいていなければならぬとうったえている。
それに応対する町会幹部は、そうはうまくはいかないことを説明している。そのなかで、「これはオカミの物資だから、ありがたく…」という言葉をきいた。するとその婦人は「私が欲ばりのように思われるのは心外です。なにも食うものも、寝るものもないから、こう訴えるのです」といっていた。この婦人はけっきょく、なにも与えられずにむなしく帰っていったが、いったいこの会話のやりとりをどう考えたらいいのか。このあとであるが、同じようなことでひとりの婦人がとびこんできていた。その婦人が帰ったあと、町会幹部は「あれは朝鮮でね。まるで気狂いで、相手になりませんよ」といっていた。町会幹部にせよ、無料で働いているのだから、そんなこといわれても「バカバカしくなる」と考えているのである
。(中略)


0,1歳児を預かるのですから、生命の安全と健康については、最大の配慮がはらわられなければなりません。(中略)がらんとしたコンクリートの部屋です。まず畳を入れてもらい、滑り台や積木・おもゃ[ママ]などの道具を研究費で揃えました。
この保育実験室の発足は、あくまでも3人の共同研究ということで学科にも大学にも了解を得てはじめられたものですが、もう一つには、大学の若い教職員が、子どもを生んでも働き続けられるように職場保育所をつくってほしいという保育要求に支えられて出発したという面もあるのです
。(中略)


その頃のことを(省)助教授は「1才児のデイリー・プログラムに関する研究」(『実験保育の研究2』1965年7月)として書いています。これを読みますと、何に重点をおいて保育されたのかが、よくわかります。


たとえば、「朝の挨拶」ということで次のように述べられています。
「保育者Aと子どもおよびその保護者の三者の間で挨拶が交わされる。また早くから来ている子どもと今きた子どもおよびその保護者の間でも“○○ちゃん、おはよう”と必ず名前を呼んで挨拶をかわすように、Aは特に保護者と他の子ども、子ども同志の間をとりもつ。その意味は、保護者は自分の子ども以外の子ども、しかもまだ充分コトバもいえない幼い子どもも“一人の人間”として尊重する事、一方、子ども同士は“互いに他を意識する”ことを、挨拶の形から学ばせようと考えている。」


ここからも、こどもがわかってもわからなくても「一人の人間」として、ことばによる働きかけをていねいにやることを、いかに重視したか、ということがわかります。


当時は、乳児期から集団で保育することはホスピタリズム施設病)をつくりだすという考えが主流をしめており、事実、乳児院での子どもに見られたことで、学科内においても「若い研究者が無謀なことをやりはじめた」と批判する人もいないではありませんでした。私たちは、ことばによる交流をていねいに行うことで、ホスピタリズムは完全に克服できる、と考えていました。
保育室は、4階、後に3階にあり、かならずしもよい条件にあるとは言えませんでした。私たちは万一の場合に備えると共に、悪条件の中でも、積極的に戸外での散歩をさせるようにしたのです。(中略)


「....従って、3階に実験室のあるということは、決して好条件とはいえない。が、この悪条件の克服にのぞんで、われわれは積極的に次のような教育課題を設けたのであった。それを大別すれば、階段をおりる能力を高めることと、目的志向性を育てること、つまり、前者は運動能力に関する課題であり、後者は性格あるいは学習能力にかかわる課題である。この二系列の課題が相互関係的に習得されるように方法的な計画をたてたのである。」(中略)


一日の生活や遊びの中で、その年齢に応じた「教育課題」を明らかにし、その課題に向かって誘導することで子ども一人ひとりの意欲をひきだそうとしたのが、私たちの実験保育質の保育であったのです。(中略)


「ジュンチャン、ナオチャン、ハーチャンなどはまだ2才にもならないのにいっしょに遊び、ままごとの場合、お友達にお茶を持っていったりする。この間に大人が入ると完全なるままごと遊びができる。この点家庭の子供は家庭の中ばかりにいるため社会性に欠け、また母親がそばにいるため自分の事は自分でする習慣に欠け、人にたよる事になるため、他人に話しかけることがおくれるのではないだろうか。(中略)...」


この後、(省)大学の教職員の子供たちはこの(省)保育園で保育をされることになり、今も続いています


土筆の記―私の履歴書』(1996.3.17)先生の退職を祝う会発行《非売品》より抜粋)(pp.19-31)