ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

こんな日本にしたのは....

はじめに


大学は学問の府であり、研究と教育を使命とするものであることは、いうまでもありません。しかし、研究と教育を行うのは教員であり、学生はもっぱら教育を受ける受動的なものと考えるのは正しくないと思います。研究と教育とは真理の探求という目標においてつらなっており、その限りでは、学生も教わりながら真理の探求に参加するものです。諸君たちは、そのみずみずしい感受性や思考力を大いに活用して、新しい知識の創造に、能動的、積極的に取りくんでいかねばなりません。


さて、新入生をふくめて、現在本学で学んでいる学生諸君は、来るべき21世紀には、丁度40才代を迎える人達です。年令的には、まさに円熟し、新世紀の文字通りリーダーたるべき人達です。この際、思いを新たにして、我執をすてて虚心にかえり、我々の先達の歩んできた道に反省を加え、正と邪とを判別するきびしい批判精神を武器に、きたるべき新世紀の文字通り百年の計をうちたてるべき責務があるのだという自覚を持ってほしいと思います。


20世紀を代表することばとして、しばしば、“孤独”“疎外”といった単語がくり返されてきました。今世紀に入ってから急速に複雑化し、高度化した情報社会の中で、日ましに色あせていく人間唯一これをいかにして回復していくかは、来るべき新世紀の人間の命運にもかかわる重大事だと思います。幸にも、本学は、所謂マンモス大学ではありません。小規模で家庭的雰囲気にあふれている大学です。この利点を充分に生かして、先輩、教職員との間での、意欲と熱意にみちた対話の中から、新世紀への指標をうちたてていこうではありませんか。


対話の成り立つ可能性の残っている大学、ここで実り多い学生生活をおくられるよう希望します。この冊子が、その際のさゝやかな手引きになれば幸です


昭和59年4月(p.1)

第一高等学校を昭和5年(1930年)に、東京帝国大学医学部を昭和10年(1935年)に卒業し、昭和48年(1973年)から信州大学学長を務めた大叔父の文章ばかりをあまり引用すると、身贔屓の謗りを招くこともさることながら、まさに文字通り「虎の威を借る狐」だと不要な誤解もされかねないので、この辺りで、身の丈に応じたものとします。
今の博士課程の若い院生から、しばしば「失礼ですが、どちらの大学ですか」と尋ねられることがあり、こんな基本中の基本も知らないで大学院に入ってしまったのか(俗に「入院ごっこ」と呼ぶらしい)、誠に仰天させられます。また、学会の合間に、こっそりと「指導教官は誰ですか」「誰の指示によってそういう研究をしているのですか」と耳打ちしてくる人もいます。
その度に、何を意味しているのか皆目わからず、頭が朦朧とし、どういうわけか恐怖心に駆られ、その回復にかなり時間がかかることとなります。そこで、一つの回答として、本棚から母校の1984年の『学生便覧』を久しぶりに引っ張り出し、上記を引用してみました。あえて、大学名は明記しません。
そして、そのような発言が聞かれること自体、極めて深刻な状況だと推察されるので、同じ『学生便覧』から、次の文章も引用します。

「一般教育について」


大学において一般教育の目指すところは、人類社会に対して責任ある積極的貢献をなしうるような、広く深い識見と豊かな創造性をそなえた人間を涵養することにある。


この目的をもつ一般教育課程が大学教育の一環として設けられたのは、欧米諸国においては1930年代、日本においてはようやく第2次大戦後に至ってのことであり、大学教育制度のもつ長い歴史を顧みれば、最も新しい時代に属することと言えよう。


本来、大学は全体的真理の探究とその伝達を使命として発足したものであったが、その理念は次第に衰退し、特に19世紀後半以来は、個別科学の急速な発達と技術の間断なき革新によって、学問の細分化と技術の高度化が進み、また同時に国家と社会の組織も巨大化と複雑化の一途をたどったために、社会は専門的な知識や技術を習得した有能な「職業人」の育成を大学に期待するようになった。そのような要請にこたえた大学教育によって狭い分野にのみ精通した職業人は、諸科学や社会の諸領域の全体、およびそれらの相互関連性に対する関心と洞察力を失う傾向に陥り、全体的人間性を回復するための道を主体的に見出しえず、かえって近代における人間疎外をますます助長する結果となった。


大学における一般教育の必要性が強く認識されたのは、このような歴史的状況においてであった。すなわち、大学教育における一般教育は、あまりにも職業教育的な旧来の大学教育に対する痛切な反省から生み出されたものであったが、それは単に大学教育制度の改革というにとどまらず、まさしく我々現代人がいやおうなく直面しなければならなくなったこの人間的な危機状況を積極的に乗り越えようとして試みた一つの真剣な知的運動である。たとえば日本における場合も一般教育課程の設置を含む大学教育制度に関して大規模な改革が実施されたのは、言うまでもなく敗戦という莫大な代償を支払った後のことであったが、そこには、もっぱら有能な職業人の育成を目的とする旧来の大学教育は結局のところ、悲惨な戦争への道を防止するうえに無力であったという反省が強くはたらいていたのである。


したがって、現在、大学教育は「一般教育課程」と「専門教育課程」とに区分されているが、上に述べたところから明らかなように、「一般教育課程」は、専門教育課程に進むための準備段階という意味をもつにとどまるものではけっしてない。「一般教育課程」の目標は、諸科学の基礎的知識を広くまた深く習得することによって、専門教育ではともすれば見失われがちな諸科学相互の関連性を洞察し、諸科学が人間にとって持つ意味を正しく把握することにある。


この意味において、「一般教育課程」は「専門教育課程」の土台または母胎ともいうべき位置を占めており、専門教育を受ける者が絶えずそこに帰って自らの足場とすべきものなのである。(p.33)

プロフィールにも書いたように、私は国文学科を卒業しています。聖書翻訳に興味を持った理由は、近代文学に及ぼした聖書の影響がおもしろいと学部時代に思ったからなのです。
しかしながら、ピアノを音楽学校で十数年も学びながら感じていたように、また、記紀万葉の古代から、昭和初期に至る近代文学までの長く重厚な蓄積を持つ国語国文学を専攻するうちに、聖書を扱うとは容易なことではないと最初からわかっていたために、それを卒論テーマとする暴挙に出るようなことはしませんでした。むしろ、最もリベラルだとされる国定国語教科書第三期を分析するよう、指導教授から示され、国会図書館にも新幹線で通って、一人で取り組みました。

その後、その指導教授の勧めで大学院に進学することとなったのですが、既に旧制の教育による東京帝国大学の国文科を出られたその教授の思想的な時代は終わっており、そこでの授業にかなり幻滅したこともありましたので、早々と世の中に出て働きたいと思ったのです。まずは基礎固めとして、苦労を人々と共にするボランティアから始めようかと思って、青年海外協力隊に応募する書類を送る寸前のところで、院の教官にとがめられ、「ここを出る人には国際交流基金で行ってもらわなければ困る」と、その場で電話をかけて担当者に取り次がれ、先方の意向で、マレーシア行きが決定することとなりました。そこが、私の茨の道の始まりだったのです。
上記『学生便覧』を、再び引用します。

国文学科は、こうした日本の文学および言語の諸方面に対して、特定の立場や態度に偏することなく、穏健中正で堅実な学風のもとに研究をつづけている。また、学生の指導に当っては、この学科での研鑽が単なる専門的知識の修得に終ることなく、正しい判断力と学問的精神の涵養に資するよう、特に留意している。さらに、そうした研究活動を通して、教員、学生相互の融和、信頼と明朗な雰囲気を育成するようつとめている。
本学科での学習生活は、卒業後さらに高度の研究生活へと進む者にとっても、また教育界その他実社会に出て活躍する者にとっても、極めて有意義であり、十分期待にこたえられるものであると信ずる。
(p.34)

ところで、主人は工学部を首席で卒業しています。そのことは、1997年11月に京都で開かせていただいた私どもの披露宴でも、卒業大学の先生がわざわざおっしゃってくださいました。一方、実弟は京大を学部からストレートで経由して工学の博士号を授与され、東大で短い期間を助手として過ごした後、アメリカ・イリノイ大学留学を経験しました。当然のことながら、二人とも、ヨーロッパとアメリカ両方での学会出席を済ませています。
実は、弟と私は10歳の違いがあります。また、主人と弟は、15歳も離れています。主人と私は、計7科目を必要とする共通一次試験を経由していますが、弟の時には、理系であれば古典か漢文がゼロ点であっても、なんと京大に現役合格してしまえるという、ひどいありさまでした。いつぞやは、京都の下宿から名古屋の実家にいた私の処へ、弟から電話がかかってきて、「ユーリちゃん、エディプス・コンプレックスって何?教えて」。即座に私は、張り倒したいような思いを遠方のためにじっと我慢して、「そんなの、図書館で調べればすぐにわかるじゃない?私を辞書代わりに使うな!」「だって、明日試験だもん。これ単位落としたら、先に進めんもん」「そんなの、自己責任だ!自分のしたことは自分で引き受けなさい!」(ガチャリ)これで現役京大生ですよ。
だからこそ私は、今の日本の大学崩壊とすさまじい知的錯乱および無責任に肥大化したプライドとモラルの喪失を恐怖しますし、同時に、何となく現首相の考え方や近い将来、起こりうるかもしれない事態が予測できるような気がするのです。
ちなみに、主人も私達三人きょうだいのいずれも、誰一人として塾や予備校通いをしたことがなく、いわゆるブランド校に通ったこともなく、通常の学校で容赦なくもまれながら必死で過ごしました。そして、何でも自分でよく考えて自力でやれ、親に頼るな、という、厳しい「自由放任主義」で育ちました。都市銀行の管理職だった父であっても、おこづかいをめったにもらったことがなく、車があってもほとんど乗らずに、高校へさえ「毎日歩いて行け!」と父から言われたぐらいです。少しでも甘えようものなら、「親を利用するな!」と、ビシバシ、否が応でも自立心を鍛えられました。(そのことは、主人が父に挨拶に来た時、父自ら、「うちは自由放任主義です」と、言いました。主人は後で、「いいお父さんじゃないか」と言ってくれました。)そこに両家の不思議なご縁を感じるのですが、これらの限られた私的公的両経験を総合的に鑑みるに、どうも昨今の教育政策や社会変動の負の影響は、予想以上に大きいと危惧もしています。

学部の母校は、私の母の母校でもあり、英文学科を卒業した母は、国文学科の私の指導教授を在学中から存じ上げていました。これは、紛れもない確固たる事実であり、東大卒の肩書きを切り札として、思想的策略を密かに企図する誰からも、その堅実さと実体験を揺るがす試みを成功させることは不可能なのです。私が、大叔父や父がその青年時代に当然のように履修したドイツ語のみならず、スペイン語を趣味的ながらも続けて学んできた理由は、まさに学部の母校に、「スペイン学科」が設置されていたからでもあります。ですから、「なぜ、マレーシアをやっている人が、ドイツ語やスペイン語まで(生意気にも)続けているのか」という、侮蔑的な問いは、まさに、その発言者の教養の不備を具現するものであることに、思いを至らさねばなりません。また、「主婦のくせに学会に来て発表するなんて」と悪質な引き下ろしを試みる人に対しても、まずは、己の心のうちに、あるいは、その学びの道程において、動機的に何か不純なものがなかったかどうかが、問われねばなりません。

私の母校の文学部では、以下のような一般教育科目と外国語科目と保健体育科目、および文学部専門教育科目が設置されていました(『学生便覧』pp.48-49)。

・一般教育科目
人文科学系―哲学/倫理学/宗教学/日本史/東洋史/西洋史/文学(各4単位)必修単位は3科目以上12単位
(私は「哲学」と「宗教学」と「日本史」で単位を取得しました)
社会科学系―法学(日本国憲法を含む)/政治学/社会学/経済学/社会思想史/地理学/人類学(各4単位)必修単位は3科目以上12単位
(私は「政治学」と「社会学」と「社会思想史」で単位を取得しました)
自然科学系―数学/物理学/化学/生物学/地学/生理学/心理学(各4単位)必修単位は3科目以上12単位
(私は「生物学」と「生理学」と「心理学」で単位を取得しました)

・外国語科目
英語/フランス語/ドイツ語/イスパニア語/中国語(各10単位)必修単位は2科目以上16単位
(私は英語とドイツ語を4年間にわたって履修し、計19単位取得しました。ちなみに、ドイツ語は全Aです)

保健体育
体育講義/体育実技(各2単位)必修単位は4単位
(実技は、テニスと水泳でした。まさに、父に厳命されて入った中学の軟式テニス部と高校の水泳部が、ここで役立ちました)

主人は、教職科目をすべて受講し、工業高校での教諭資格も持っています。5歳年下の私は、当時の中学や高校の受験体制が気に食わず、教職科目は一つだけ受講しました(「道徳教育の研究」でAの2単位)。

他学部・他学科は「8単位まで卒業必修単位として加算する」と規定されていましたので、英文学科の外国人講師(英国人男性の「英会話」と米国人女性の「英作文」)の授業を一つずつ受講し、全てAで計4単位をいただきました。ご参考までに、その英国人講師の企画したホームスティ・プログラムに私も参加し、1987年3月、マレーシア航空に乗ってボーンマスとロンドンの2家庭に計3週間、滞在しました。その後、1週間は自由行動だとのことで、このブログでも以前書いた、ドイツとオランダのペンフレンドの家に泊まらせてもらい、特にドイツ語の使用に関して、両国における感情面の相違という点で、実に得難い経験をしました。ヒトラーのナチ・ドイツは、まだ終わっていなかったのです。その帰りには、なんと、クアラルンプールに一泊し、セントラル・マーケットや国立モスクなどの市内見学をしました。写真もまだ残っています。(すべては後になって、不思議な道程に気づくものです。)

さて、肝心かなめの「文学部専門教育科目」について、『学生便覧』(p.49)から列挙してみましょう。開講科目の各単位をスラッシュの前に、必修単位としての規定をスラッシュの後に、数字で示します。

基礎科目―国文学史(12単位/8単位)国語概説(4単位/4単位)国文講読(10単位/6単位)漢文講読(4単位/2単位)
(私は「国文学史」を計12単位、「国語概説」を計4単位、「国文講読」を計10単位、「漢文講読」を計4単位、取得しました)

・専攻科目―国文学概論(4単位)国文法論(4単位)(二科目併せて必修単位は4単位と規定)国語国文学各論(20単位)(必修単位の規定は空欄)国語国文学講読(10単位/6単位)国語国文学演習(16単位/6単位)国語国文学実習(2単位)(必修単位の規定は空欄)中国文学中国哲学各論(8単位/4単位)中国文学中国哲学講読演習(4単位/2単位)書道(2単位)(必修単位の規定は空欄)
(私は「国文学概論」で2単位「国文法論」で4単位、計6単位取得、「国語学各論」と「国文学各論」で計14単位取得、「国語学講読」「国文学講読」で計6単位取得、「国語学演習」と「国文学演習」で計6単位取得、「国語国文学実習」で1単位取得(成績はA)、「中国文学各論」で4単位取得、「中国文学講読演習」で2単位取得しました)

関連科目―文学概論(4単位)言語学(4単位)日本文化史(4単位)西洋文学(4単位)(必修単位は空欄)
(私は「日本文化史」を4単位(成績はA)取得しました)

卒業論文は8単位必修で、いうまでもなくAでした(「大正・昭和初期のことばの研究」)。私は、指導教授にご迷惑をかけたくないばかりに、びくつきながらも必死で締め切り当日に万年筆の手書き原稿(当時はこれが当たり前)を提出しました。その後、面接によって合否が決まるため、恐る恐る教授の研究室へ赴きました。その時の教授のことばです。「あなたは一人で勉強する人ですから」。遠い記憶を信頼してよいならば、私は咄嗟にお返事しました。「すみません、勝手な振る舞いをいたしまして」。
学生便覧』には、「卒業するためには、4年以上在学し(休学期間を除いて、在学期間は8年をこえてはならない。)、教職に関する専門科目を除いて、次のとおり履修し合計126単位以上を修得しなければならない。」と書いてあります(p.43)。私の「卒業要件修得単位数」は計144単位ですが、総合計は卒業当時で、計146単位でした。
以上は、母校から3年前に別件で取り寄せた「成績証明書」に基づきます。自分のことなら、個人情報もなにも構いませんから、そのまま公表することにいたしました。

実は、他にも「言語学」の講義を履修していましたが、とても単位申請などおこがましくて、それだけはやめました。その代わり、自分で暇をみては大学附属図書館へ行って、何冊も専門書を探し出し、たくさんのノートを作って勉強しました。
これらの学部生時代の学びを糧に、何も知らなかったマレーシアへ赴いて、必死になって3年間、マレー人に日本語を教えて、その間に自分の課題、ひいては、全世界の喫緊の課題(特に9.11事件発生以降、誰の目にも明らかとなった)に気づいたのです。信頼できる一次資料の収集が大変に困難で、しかも、即座に私の意図を理解できる日本人研究者が、国立大学の名誉教授陣を除けば、今の日本には存在しないために、19年間という長い時を無駄にしました。もちろん、大学に就職したくて、こんな馬鹿げたことをしていたのではありません。
お願いですから、もうこれ以上、私の人生に無責任に干渉しないでください。私のアイデンティティを、私を産み育ててくれた家族、親族、学部の先生方、そして主人を育み導いてくださったすべての人々を、もうこれ以上、策動しないでください。今の日本の大学は、文系理系を問わず、もうめちゃくちゃです!モラルも品性もあったものじゃありません。
こんな日本にしたのは誰ですか!」「あなた方に言われたくない!
鳩山由紀夫首相