ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

雄々しくあれ

http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2007/10/post_586.html


2007年10月30日
「キャンパス左翼とイスラム過激派に対抗する方法」


・デイビッド・ホロウィッツという極右翼の作家がいる。彼は1960年代にはバリバリの左翼運動員で、かなりあくどい政治活動をしていた人なのだが、それが友人が自分が信用していた極左翼の市民団体に殺されたことがきっかけで、左翼の悪に気づき心を入れ替えて右翼に転向した人だ。


・いま、世界中で過激派イスラム系と左翼連中が共謀して保守派思想を弾圧する事件があちこちで起きている。


・左翼及びイスラム過激派に敵対する講演会やイベントを主催する側は、自分らの行為がどれほど危険を伴うものなのか充分に覚悟して、それに対する事前の処置をとってもらいたいということだ。イスラム系テロリストにしろ左翼市民団体にしろ、言論の自由になど興味はない。彼らは自分らこそが正しいと信じ異論はどのような手をつかっても(テロを含む)封じ込めようという堅い意志のある恐ろしい敵なのだということを自覚してもらいたい。


大学のキャンパスは保守派には非常に危険な場所である。やたらに自分の意見を表したりしたら、教授からは落第点をもらうし、学校側からは言いがかりをつけられて退学になったり、他の生徒から訴えられたりする。場合によっては暴力を振るわれ殺されかねない。


言論の自由や思想の自由が保障されているはずの自由国家の大学で、自分の意見を述べることが命にかかわるという状況をそのままにしておかなかればならないのだろうか?いや、それは違うだろう。「悪が栄えるには善人が何もしないでいればいい」という言い回しがあるように、保守派学生や教授たちは黙っていては、アメリカ大学の状況は悪化する一方である。


・我々自由主義の人民がこの神に与えられた権利を守ろうというのであれば、それは命がけで守らなければならない大切なものだということを充分に自覚すべきである。戦いの危険を顧みずに戦場へ挑むのは勇敢かもしれないが愚かでもある。戦いは勝たなければ意味がない。左翼やイスラム過激派と対抗しようというのであれば、それなりの自衛を考えるべきだ。自由のために勇敢に、そして賢く戦おう

(部分抜粋引用終)

http://scarecrowstrawberryfield.com/


2016年2月27日
言論の自由が弾圧されるファシスト大学キャンパス」


・2016年2月25日、保守派政治評論家でトークラジオのホストのベン・シャピーロ(32歳)がカリフォルニア州ロサンゼルス大学(California State University in Los Angeles、CSULA)にて演説。


・シャピーロは神童で確か15歳くらいで大学を卒業してハーバード法律大学を主席で卒業するという天才。


・シャピーロが敬虔なユダヤ教徒


・保守派の演説者が大学で講義を行なう場合、左翼の過激派が妨害するというのは何も今にはじまったことではない。


・演説の主旨は黒人市民運動の父、マーティン・ルーサー・キングが主張した「人々は肌の色で判断されるのではなく、その人格によって判断されるべき」というものなのである。ブラックライブスマター運動は「人間はすべて肌の色によってだけ判断されるべき」という正反対の思想であり、黒人を特別扱いしないのは人種差別だという歪曲した思想なのである。


アメリカの黒人の多くがイスラム教に感化されている。先に述べた教授の「アブドラ」という苗字も本名ではなく、イスラム教に改宗した時にもらった改宗名であること間違いない。黒人間の嫌ユダヤ教は普通

(部分抜粋引用終・一部順序変更有)

http://www.sakuranokai.org/article/434314338.html


2016年2月26日


・「これは、2014年から2015年に発生したドイツにおけるムスリム移民の犯罪ですが、それをドイツ政府は、国民に知らせずにいたというのです。上記のサイトは、それが漏洩したものです。それによると二年間で移民が犯した犯罪数は20万8千344件に登るとあり、その32%が詐欺や窃盗などで、性犯罪は1%の1688件で、そのうちの458件が凶悪な強姦や強制的なものだったとあります。強姦の被害者は被害届を出さない人が圧倒的に多いといいますから、実際の被害者数は相当な数に達すると推定されます。移民自身の犯罪も驚きですが、隠蔽され政治問題化しないところが恐ろしい。ドイツもわが国に劣らず、深刻な情報統制が敷かれていると考えられます。」


・「これは、移民や難民が住みついたフランスのカレーという町に住む住民の悲痛な訴えの映像です。これによると同町は、犯罪とは無縁だったのに移民難民が住みつくようになって状況は一変し、移民居住区はいかがわしい娼館が建ち並び麻薬汚染が深刻で警察も近づけない治外法権となり、移民難民達の住民への暴行、強姦、恐喝、窃盗が相次ぎ、住民は外を歩くことも、店を開いて商売をすることもままならない状態とのことです。警察に言っても何もしてくれず、一部の住民は武装して移民達を襲撃するという実力行使に出ているそうです。」


・「修羅場を経験せず戦後を過ごした日本民族に色んな面でたくましい移民:難民との摩擦に応戦する度胸はありまっか?「仲良くしようぜ!」などと理想を掲げておる人たちは仮に、移民・難民がマジョリティーになった時も仲間意識で付き合ってくれると本気なんでしょうな<ヽ`∀´>おめでたいことです。」

(部分抜粋引用終)

http://agora-web.jp/archives/1671435.html


「独ザクセン州で何が起きているか」
長谷川 良


・ドイツの16の連邦州でも外国人排斥犯罪が急増したのは旧東独のザクセン・アンハルト州(州都マクデブルク)とザクセン州(州都ドレスデン)だ。前者では14年94件が昨年335件に、後者では182件から509件とそれぞれ急増している。


ザクセン州カトリック神学者フランク・リヒター氏は、「わが州では相対的に同一民族の住民が住み、他の文化出身の外国人と共存した経験が乏しい。その上、社会は世俗化し、住民は宗教性に乏しい」(バチカン放送独語電子版25日)と指摘する。


ザクセン州のゲルリッツ教区のヴォルフガング・イポルト司教は、「旧東独国民の多くは非キリスト教の教育を受けてきた。彼らは今、自由を享受できる環境圏で生きているが、困窮から逃げてきた難民に対しては排他的な行動に出ている。『我々は国民だ』と叫び人々には、キリスト教的価値観が完全に欠如している」と指摘し、ドレスデン市などで広がっている外国人排斥運動「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( "Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes"、通称・Pegida運動)を批判している。


チュ―リンゲン州のディーター・アルトハウス元州首相は、「東独共産政権(ドイツ社会主義統一党)は国民の徹底的な非宗教化を目指してきた。その結果、国民の精神的ルーツを抹殺することに成功した。ザクセン州では東西ドイツ再統一後、住民は民主主義の政治秩序を押し付けられてきたが、その根底にあるキリスト教的価値観は忘れられてきた。流入してきたイスラム教難民へ理解が欠けるだけではなく、それを排斥しようとしているわけだ。連邦政府は旧東独の産業インフラ整備や経済発展に専念する一方、宗教的教育を提供することを忘れてきた」と分析している。


・旧東欧のチェコ無宗教が最も多い(国民の76・4%)。旅行者は美しいプラハの景色に騙されてはならない。そこに住む国民は久しく神を失ってしまっているのだ。同じように、旧東独地域の住民は神を失ったことすら自覚できないほど徹底的な無宗教教育を受けてきたのだ


長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月29日の記事を転載

(部分抜粋引用終)
この記事は、どこか胡散臭い。まず、イスラームと対峙したキリスト教史を本当に知っているのか?知っていれば、何がどのように衝突の焦点となるかが、よくわかるのではないだろうか。血なまぐさい欧州史をよく学び、自文化に誇りと愛着があればこそ、このような排他的反応になるのではないか?
「他の文化出身の外国人と共存した経験が乏しい」「住民は宗教性に乏しい」「キリスト教的価値観が完全に欠如」「キリスト教的価値観は忘れられてきた」など、住民を責め立てているが、果たしてそうだろうか?
キリスト教があれば、宗教性があれば、外国人との共存経験があれば、急激に大挙をなして欧州へ押し寄せてきたムスリム難民にも寛容に温かく受け入れ体制を整えるはずだという証拠は、どこにあるのか?
根拠なしに、論説を立ててはならない。混乱の元である。

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34035211.html


2016年2月26日


・「自国のために戦う意志」を問う国際調査にて、日本では「はい」と答えた人の割合が11%と、64カ国中で最も低い割合だったそうです。(各国の世論調査機関が加盟するWIN―ギャラップ・インターナショナルが64カ国・地域で実施した世論調査の結果を発表)


・「国のために戦う意思が無い」と明示的に答えた人の割合が多いのは、トップがドイツの62%。次いでイギリスの51%、韓国の50%という順になっています。日本は43%で8カ国中5位となっており、中位ポジションです。そして、日本の特徴はもう一つ。「わからない」が47%で8カ国中最高と、態度を決めていない人が半分近くいるのです。


・この時、撒いた水が一瞬で気化すれば巨大な「気化爆弾」になっていたと言われる。この恐るべき放水作戦を見た米軍はじめ各国将校は驚いたこれこそかつての「特攻」ではないか。「日本人はいざという時には、命を捨てる。昔も今も同じだ」。


・敷島の 大和心の ををしさは ことあるときぞ あらわれるにける


これは明治天皇日露戦争の旅順閉塞作戦で広瀬中佐が敵弾で吹き飛ばされたことに詠まれた歌です。日本人の勇ましさは、一旦日本に危機が起きた時にこそあらわれる、と詠まれました。

(部分抜粋引用終)

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34036810.html

2016年2月27日


・予想外の苦難の連続でした。しかし日本人の勤勉と努力の結果、多くが成功者となりました。その成功の秘密は海外で孤立しているからこそ発揮された日本精神にありました。その日本精神の支柱こそ「教育勅語」だったのです。


・彼らは日本の祝日や四大節には必ず日の丸を掲げ、奉安殿から「教育勅語」を出して奉読していました。海外にいても日本人としての誇りを忘れずに日本人以上に日本人になっていたのです。

(部分抜粋引用終)

http://blog.livedoor.jp/bokushinoto/archives/55607994.html


2016年02月28日
イエズス会会員の説教規則」


「イグナチオとイエズス会」(フランシス・トムソン)の中に、イエズス会の会員の説教の規定が書かれている。

1.同じ人が語るよりも、交代で語るのが良い。それによって、みんなの語る能力が養われる
2.迫害を恐れない心を養うとともに、多くの人に神の国と神の義を伝える。
3.準備して、人間的な知恵を凝らした内容ではなく、聖霊の知恵に信頼する。
4.人間的な知恵や技術で人を説得しようとするな
5.子供にも分かる易しい内容であるべきで、知に過ぎてはならない
6.愛を行動で示すこと
7.ただで受けたものはただで与えるがよい
8.神を愛する心が伝わる、また神の愛がにじみ出る説教を目指すこと
9.イエズス会は戦闘部隊であって、イエズス会会員は、隊員、戦士であることを忘れるな。

(部分抜粋引用終)

http://agora-web.jp/archives/1671411.html


「東大入試合格には「知性的」であってはいけないのか?」
松本 徹三


・東大の国語の入試問題の第一問を読み、仰天した。冒頭に米国の哲学者リチャード・ホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」からの引用があり、フムフムと頷きながら読んでいると、後半になって、突然何の脈略もなく、「知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思う」という言葉が現れ、これが全体の論旨になっている。最後に、これが神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんの文章だった事が分かった。


・ホーフスタッターは優れた哲学者で、米国史を語る上では欠かせない人物でもある。彼は大恐慌の最中に米国ニューヨーク州バッファロー大学で学び、後にコロンビア大学で博士号を取るが、在学中には「共産主義青年同盟」に加入していたという経歴もある。(但し、後には、ソ連と米国の共産主義者達の言動に彼は痛く幻滅している。)


・この入試問題に引用されている「アメリカの反知性主義」は、1950年代の初めに米国で猛威を振るったマッカーシー旋風」、通称「赤狩り」にも触発されて書かれた大著で、その内容は広範囲に及ぶが、その背景には「アメリカ社会が知識人を否認した」「知識人と大衆の間に巨大で不健全な断絶がある」という深刻な認識と、これに対する大きな危機感があった。


・米国内には国際共産主義に対する強い反感があり、共産主義者に共鳴する人達は勿論、多少なりともリベラルな考えを持った人達は、「米国の利益を害する『非米活動』をしている」として糾弾され、その職を追われた


・これを極端で乱暴な形で推し進めたのがマッカーシー上院議員であり、1952年の選挙で大勝したアイゼンハワー大統領とニクソン副大統領が率いる共和党政権は、当初はそれをサポートした知識人にはリベラルな考え方をする人達が多かったので、これを目の敵にする「愛国主義に突き動かされた大衆」は「反知性的」と見做されたのも当然だった。


内田樹という人は、東大仏文科の出身だが、安倍首相を「独裁」「反知性」と決めつけているところなどは、「安倍に言いたい。お前は人間じゃあない。叩き斬ってやる」という演説で有名になった北海道大学山口二郎名誉教授とほぼ同じである。


・「共産党マルクス思想の本質を理解するラディカルな政党であってほしい(アカハタの取材への回答)」「憲法九条と自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている」「日本人は原理原則が行動原理ではないので、憲法もあいまいなままでよい」「地方自治の首長は教育行政に関与して欲しくない(平松元大阪市長に対する要請)」等々、突っ込みどころ満載である。


・色々と変わった考え方をする学者さん達がいる事自体は健全な事だ。しかし、私が問題にしたいのは、受験者の文章解読力や論理力をチェックするべき国語の入試問題に、わざわざこの様な人の文章を取り上げた東大教授の見識についてである。


・ホーフスタッターの著書の背景となった「アメリカにおける知識人と大衆との間の巨大な断絶」をここに見るような気がしているのは、決して私だけではないだろう。私には、彼こそが「日本の安倍首相などとは比較も出来ない程の反知性派の巨魁」に見えるのだが、「集団の合意をもたらす力動的プロセスを見事に駆動させている」彼は、内田さんにとっては、きっと理想的な「知性派の領袖」なのだろう。


・国民の税金で運営され、一応日本で最高峰の「知性」が結集されていると見做されている東大で、この様な「反知性的」としか思えない文章が、白昼公然と入試問題に使われた事は、そう簡単に看過する訳にはいかない。

(部分抜粋引用終)

http://agora-web.jp/archives/1671437.html


・こんな悪文を出題した文学部(たぶん国文科)の教師は、「戦争法反対」のデモに参加しているのだろう
国文科は昨今の「文系学部不要論」で不要とされている学科の筆頭だが、そういう教師ほど劣化するのは偶然ではない。国文学の能力には客観的な業績評価の尺度がないので、自分の弟子を引き上げる傾向が強いからだ。
・法学部の劣化が激しいのは早稲田だけではなく、昨今の安保法制をめぐる議論で、東大法学部の石川健治教授(憲法学)が「安保法案は安倍政権によるクーデターだ」と断言したのには驚いた。
・文系の教師が劣化する原因は、徒弟修行で後継者を育てるため、親分子分の関係が強いのだ。同じ構造はマスコミにもみられ、長谷川煕氏もいうように、朝日新聞社会主義的な傾向が強く、反権力的な記事を書かない記者は地方支局を転々とする。
・左翼教師・マスコミがいつまでも残る原因である。法学部でも、戦後の第一世代の南原繁丸山眞男は一国平和主義者ではなかったが、その弟子は先生に迎合して左傾化してきた。マスコミでも、人事を通じて左翼的なバイアスが再生産されてきた。
・早稲田の鎌田総長が「大学入試を人物本位に」というのは、日本中の大学を早稲田のような徒弟制度と情実入試にしようということだろう。このような長期雇用と年功序列が、日本の左翼が一国平和主義から脱却できない原因だ。

(部分抜粋引用終)
この文章を書いた人のことは全く存じ上げないが、恐らく、「国文学科」を「日本文学科」と混同している可能性があるのではないか、と元国文学科卒業生の私は思う(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150220)。
一言で原因を述べると、マルクス主義的に「国史」を「日本史」、「国語」を「日本語」、「国文学科」を「日本文学科」、「国語国文学科」を「日本語・日本文学科」と改称した挙句、留学生や在日系やミックス学生などが雪崩れ込み、それぞれに自己主張を始め、多様化と文化相対主義の下にレベルが下がったのだ。自分の国の歴史を文学や言葉から実地に学び、古文書などを読み解くのに、我々が真剣にならないはずがない。他国人だから日本のことを軽く扱えるし、レベルも母語使用者より下がるのは自然だ。
これは、差別ではない。厳粛な事実である。
上述の記事のように、徒弟制のためにレベルが下がったのかどうかは、時と場合と人脈によるので、何とも言えないと私は思う。徒弟制は必ずしも悪い制度ではない。良い先生のところに優秀な学生が集い、全人格、全生涯かけて師から学び取り、受け継いだものに磨きをかけて後世に伝えれば、叡智伝授もスムーズで、権威を確立するためには優れた制度だと考える。
今でも覚えているが、私が学部生の頃、中国か韓国の留学生が国文学科に入学したいという話があったようだ。その時、教授が「外人には文学はわからない」と却下した話を授業中に聞いた。当時は確か、本籍地を記入する欄が提出書類にあり、身元保証人の住所と署名を書く欄もあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)、今のように門戸を広げて大学に入学させていなかった記憶がある。「国文なんて、英語ができない人が行くところ」「就職先は高校教諭かOLか公務員しかない」「実学ではないから、役に立たない」と盛んに悪口を言われていた頃である。
あの頃、教授会は保守的で考えが古くて狭い、と思っていたのだが、しかし、私の先生方はご立派だったと、後になってつくづく感じ入る。というのは、大学は将来に備えて、基礎的な勉強の仕方を学ぶところであり、本学部を卒業した者は、将来、他分野に進むことがあっても、充分に自力で道を切り開ける力を備えているものと確信する、という趣旨の文章を読んだことがあるからだ。
つまり、「英語ができない人」「レベルが低い人達」と決めつけていたのは、単純に偏差値だけを見ていた可能性がある。そこで、国文学科生がそのように世間から思われているならばと、人の二倍、三倍も努力して、専門は勿論のこと、最大限頑張った上で、英語のみならず、第二外国語のドイツ語も、第三外国語のスペイン語も頑張らなければ申し訳ない、と真剣に思い詰め、時間との競争で勉強していた。通学時間も庭掃除やお皿洗いや洗濯の時なども、アルバイト貯金で買ったウォークマンを耳につけて、いつもラジオから録音した外国語を繰り返し聞いていた。二刀流である。
記事中にある「情実」は悪い響きだが、学力や体力や常識が相応にあって、見込まれて推薦を受けたのならば、情実ではない。私は、推薦されたり、紹介を受けたり、お声を掛けられて、仕事をいただいてきたことが多い。(逆を言えば、自分から名乗り出る(「売り込みをかける」)と、ほぼ失敗する(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100423)。)推薦者の信用を裏切ることのないよう、緊張しながら、与えられた仕事をつとめようとしていたことも同時に思い出す。
「長期雇用と年功序列」について、悪い面ばかり強調する論調はいただけない。若手で実力旺盛ならば、そのように言いたい気持ちは充分によくわかるし、安住し過ぎて現実に対応できないようでは困る。ただ、この制度が世界的に注目されていたピークの時期に、私は母校で留学生達と交流していたので、予測のつかないことの多い人生において、余裕を持って安定して生活設計を立てていけるプラス面も、バランスよく見る必要性を思う。