ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

封印をとくと...

昨日は、封印していた遠い記憶について、原資料を引き出して文章にまとめる作業をしたので、やっと、ぼんやりしていた視界が明るくなったような思いがしました。
先程も、「子ども手当」の話をテレビで少し見て、何だか情けない話だなあ、と憤慨したのは、第一、「お金がないから子どもが育てられない」という発想そのものです。子どもが子どもを産もうとするから、話がおかしくなるのではないでしょうか。何やら2000万円などという数値が出てきて、ちと頭が狂っているのではないかと疑わしく思いました。「恥を知れ、恥を」と、昔なら言われていたでしょうし、その一昔前なら、「親の顔が見たい」でしょう。
昨今の研究費の「仕分け」についても同様です。「お金がないから研究できない」というのは、いかなる研究であっても、まず知恵不足と予測能力不足を恥じるべきなのであって、将来の見通しも立てずに研究課題だけを先行させ、予算を切られる可能性、この変化激しき時代に、世界大不況に突然見舞われる可能性を視野に入れていなかったとしか....。つまり、安穏とし過ぎているということです。そういう甘ったれた態度は、切られて当然なのです。
あたかも、子どもが「子ども部屋を割り当てられなかったから、試験勉強ができない」と駄々をこねているようにも見えます。
そういうことを公に発言しようものなら、「素人に専門家の苦労の何がわかるものか」と足蹴にされそうなので、ここで正直に申しましょう。実際のところ、お金はあるところにはあるのであって、本当に必要ならば、必ずお金が流れる仕組みになっているのです。
これは何かのイデオロギーに基づく考えではなく、私の実体験から来ています。学部の頃、アルバイトを始めた時から、世界各国の貧しい地域などで働くスタッフのために、定期的にお金を取り分けて信頼できる組織を通して送り続けてきました。今でも、例えば、カリタスなどの報告書を見ていると、月単位で、びっくりするほどのお金が寄せられています。もちろん、カリタスは寄付金控除の対象でもありません。つまり、人々にお金を自然と出させるアピールが上手なこともさることながら、その働きに、重要性と公平性と透明性と計画性および将来性が認められるから、必要なものはおのずと必要なだけ満たされる仕組みなのです。
研究だって、今では民間企業の研究所の方が、よほどいい研究をしているというのは、随分前からあちらこちらで聞いていました。
それを、最近では、何を誤解しているのか、「これでは若手研究育成ができません」などと、堂々と述べてある声明文さえあるそうです。私の知っている事例では、ひどい「若手育成」をしているのに、です。文系の科研費論文を見ていても、これならいくらでできるか、私でもだいたい見当がつきます。とんでもないところになると、イギリスまで行って集めた資料だという科研費報告で、実は私が自分のお金で、マレーシアやシンガポールや日本(!)の大学図書館から少しずつコピーして集めた資料とかなり重複していたケースもあります。

結局、根は同じことです。最初から他人にもたれかかり過ぎ、人様から集めた公金なのに、何を血迷ってかぶんだくってやろう、という物乞い意識が染みついているのです。偏差値の高い大学を出ていたって、博士号を持っていたって、国立研究機関に所属していたって、こんな当たり前のことが、わからない人にはわからないのです。この恐るべき倒錯は、一体いつから始まったのでしょうか。
ここで、昨日も書いた学部の指導教授について、ご参考までに思い出を記させていただきます。
よく、文系の大学院に進む人は、就職活動に失敗したから、とか、一般社会に出るのが怖いから、という傾向があるとも聞きます。(先日の研究会でも、「不況になると院生が増える」と聞きました。最初は意味がまったくわかりませんでした。)実はこれ、「あなたもそうですか?」と、1997年にある機関で尋ねられたことがあります。なんと私は、あまりにもマレーシアでの経験や当時抱えていた課題が深刻過ぎて、「はい、そういうことかもしれません」などと答えてしまいました。その時、その女性面談者が(ふぅっ)とため息をつき、「だからだめなんですね」と。すぐ後に、別の方が「あなたは混乱しています。もっと自分を客観的に見る訓練が必要ですね」と、おかしそうにおっしゃってくださいました。当時の私は、(あぁ、また笑われた。もうだめだ)と、ますます落ち込んでしまいました。
しかし、昨日も書いたように、実は私、学部の指導教授から勧められたので、書類を整えて受験し、そのまま合格してしまったのです。もちろん、合格が決まった以上は、自分のアルバイト貯金を全部はたいて入学金を支払い、返済義務のある奨学金を探して、勉強を続けるつもりでした。親には、合格してから報告しましたが、母は「これではますます縁遠くなる」と心配して、なんと密かに指導教授に電話をかけ、私が進学を断念するよう説得して欲しいと、申し出たそうです。後で、台所で安い赤ワインで乾杯してくれた母が、「先生がね、今の大学院は昔とは違うんだって。女の子がOLやったって、2年でやめて結婚する時代なのだから、2年ぐらい待ってあげてください」と。娘が娘なら、母も母です。蛙の子は所詮蛙だということを、再認識させられました。
しかし今でも、その指導教授に心から感謝するのは、私達学生の前では、決して謹厳な態度を崩されなかったことです。院の受験前に、別大学のある先生にお目にかかるよう指示されましたが、その際「会ってもらえなくて当然だと思え。ドアを開けてもらえ、5分でも会っていただけたならば、心から感謝せよ。いいな」と厳しい声で注意されました。合格をお伝えすると、「今年だったからチャンスがあった。来年なら、落ちていたかもしれない」とも言われました。そして、「大学院に行くからといって、自分が偉くなったと勘違いするなよ。世の中には、あなたより遙かに優秀でも、家庭の事情などで進学できない人もいっぱいいる。たまたま長く一つのことを勉強していれば、誰でもそのことには詳しくなれるのだ。わかったな」。その後、何度ありがたくこのお言葉を思い出したことか、わかりません。
ここ10年ほど、研究会や学会に出る度に、日本にいて日本語だけでしゃべっているのに、何だか話の全く通じない院生や大学の先生方が増えたんだなあ、と頭が朦朧とする経験をしています。(そういう時は、そのように返事しないんですよ)と思う一方で、(いやいや、人のふり見て我がふり直せ、と言うではないか)と、自戒の念としていたのですが、さすがに、(本当にこのままでは人生が終わってしまう)と焦りが出てきたために、ブログを(主人に何度も勧められて)始めたというのが真相です。よほど悪い環境にいたのか、それとも、狭い小さな場所ばかりグルグル回っていたのか、今ではよくわかりません。