ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

揺らぎつつある日本の基盤

1.産経(http://www.sankei.com/column/news/150904/clm1509040001-n1.html

2015.9.4
「安保敵視の『反日リベラリズム』」 
拓殖大学特任教授・森本敏


・安保法制は参院審議が始まってから、少しずつ社会に浸透してきた感があるが、国民理解が十分に進んでいるとは言い難い。これには衆院審議における違憲論議や戦争法・徴兵制といったプロパガンダ的反対運動、戦後70年とダブらせた各種報道、国会審議のやり方の要因が絡んでいるといえよう。


・安全保障は本来、国家や国民の生存にかかわる重大事であり、例示により理解が進むとは限らず、国際社会の実態と展望を率直に説明した方がよい場合もある。


・60年安保反対闘争は今や、昔の話になったが、あの運動に当時の若者を駆りたてた動因は反米ナショナリズムであったと思う。こんな条約を結んで日本は米国の属国になってよいのかという感情が共感を呼んだのである。しかし、若者たちは条約文さえ読んでなかったし、どの条文を修正したら賛成できるといった議論もなかったであろう。


・歴史を振り返ると日米安保体制がその後半世紀にわたる日本の安全と経済繁栄の基礎になったことは明らかであり、今や、安保反対闘争に加わった人を含めて国民の7割以上が日米安保に賛成している。


・今、安保法制の反対者を動かしている動因は反米ナショナリズムではなく、反日リベラリズムといえるのではないか。


・これは真のリベラリズムとはいえず、反政府活動に駆りたてられた感情的なリベラリズムである。


・国際社会は依然、混沌(こんとん)としており、ウクライナ情勢や「イスラム国」、シリア、イラクを含む中東湾岸情勢は深刻で解決の道のりは見えない。


北朝鮮は2006年、09年、12年と3年ごとに弾道ミサイル実験を行い国際社会から制裁を受けて反発し、その都度、核実験を行った。今年はさらにその3年後にあたり発射台の拡張を行っている。6者会合は動かず北朝鮮による核兵器弾道ミサイル開発の時間稼ぎが続いている。周辺への挑発活動も続いており、その意図も不明瞭である。


北朝鮮核兵器と日本にいつでも発射できる数百発の弾道ミサイル保有しているということである。


北朝鮮が急迫する短期的脅威とすれば、中国は中期的なリスクである。南シナ海東シナ海における力による現状変更は、やがて周辺との武力衝突という形で顕在化するであろう。


・国連は機能しない。しかも軍事的脅威にとどまらず国際経済に与える影響は重大である。あるいは国内の経済破綻から軍事的挑発が引き起こされるシナリオもあり得る。


・日本が米国のみならず他国の軍事活動を支援することは日本の安全にとっても不可欠の手段である。一国平和主義は到底、成り立たないのである。


日米安保体制は米国が日本の防衛義務を負う片務性をもっている。日米同盟が真のイコールパートナーにならない理由はこの点にある。


・片務性をできる限り解消して日米同盟を真の同盟関係に近づけつつ、日本の安全を確実にすることは安保法制の重要な目的である。特に、安保法制で可能となる一定要件下における集団的自衛権行使、米軍のアセット防護や米軍に対する広範な後方支援はそれを可能とする。


北朝鮮や中国に対する日米同盟の抑止機能を格段に向上させることができるのであり、米国はこの点を高く評価している。もちろん、これを効率的に実施するためには日本の政治が果たす責任は大きく、自衛隊リスク管理や態勢の整備も必要となる。国家の安全を果たすにはリスクが付き物である。


・回避していたのでは平和も安全も繁栄も期待できない。将来を展望すれば今、日本に求められているのは、日本の平和と発展のため危機に対応する強い責任感と覚悟である。

(部分抜粋引用終)
2.産経(http://www.sankei.com/column/news/150910/clm1509100001-n1.html

2015.9.10
「言語を磨く文学部を重視せよ」 
評論家・西尾幹二


・自国の歴史を漢字漢文で綴(つづ)っていた朝鮮半島の人々が戦後、漢字を捨て、学校教育の現場からも漢字を追放したと聞く。住人は自国の歴史が漢字の原文で読めないわけだ。私はそのことが文化的に致命傷だと憂慮しているが、それなら今の日本人は自国の歴史の原文を簡単に読めるだろうか。漢文も古文も十分に教育されていない今の日本人も、同様に歴史から見放されていないか


・学者の概説を通じて間接的に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原典に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる


聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。


・古代と近代に日本列島は2つの巨大文明に襲われた。2つの憲法はその2つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鑑(かがみ)とし、それに寄り添わせたのではなく、それを契機にわが国が独自性を発揮したのである。しかしいずれにせよ大文明の鑑がなければ生まれなかった。


・今のわが国は鑑を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機をも見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない


自国の言語と歴史への研鑽(けんさん)、とりわけ教育の現場でのその錬磨が何にもまして民族の生存にかかわる重大事であることは、否応(いやおう)なく認識されるはずである。ところが現実はどうなっているのか。


文部科学省6月8日、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を各国立大学長などに出した。そこに「人文社会科学系学部・大学院については(中略)組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とあり、現にその方向の改廃が着手されていると聞く。先に教養課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアーツの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。


・文学部は哲学・史学・文学を中心に据え、西欧の大学が神学を主軸とするように(ドイツでは今でも「哲学部」という)、言語教育を基本に置く。文学部が昔は各大学の精神のいわば扇の要だった。


・新言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言葉の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。


ベルリンの壁を越える逃亡者の実態を最初に報告したのは竹山道雄(独文学)であり、仏紙から北朝鮮の核開発を掴(つか)み、取り上げたのは村松剛(仏文学)だった。その他、小林秀雄(仏文学)、田中美知太郎西洋古典学)、福田恆存(英文学)、江藤淳(英文学)など、国家の運命を動かす重大な言葉を残した危機の思想家が、みな文学者だということは偶然だろうか。

 
・本欄の執筆者の渡部昇一(英語学)、小堀桂一郎(独文学)、長谷川三千子(哲学)各氏もこの流れにある。言葉の学問に携わる人間は右顧左眄(うこさべん)せず、時局を論じても人間存在そのものの内部から声を発している


・人文系学問と危機の思想の関係は戦前においても同様で、大川周明(印度哲学)、平泉澄国史)、山田孝雄国語学)、和辻哲郎倫理学)、仲小路彰(西洋哲学)などを挙げれば、文科省の今回の「通知」が将来、いかにわが国の知性を凡庸化せしめ、自らの歴史の内部からの自己決定権を奪う、無気力な平板化への屈服をもたらすことが予想される。


・オリンピックの新国立競技場とエンブレムの2つ続いた白紙撤回は、組織運営問題以上の不安を国民に与えている。基本には2つのデザインに共通する無国籍性がある。北京オリンピックのエンブレムが印璽をデザインして民族性を自然に出しているのに、今度の失敗した2つのデザインには一目見ても今の日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さが露呈している。


・大切なのは言語である。自国の歴史を読めなくしている文明ではデザインにおいても訴える言葉が欠けている。

(部分抜粋引用終)