ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

鼻持ちならない 語釈

ここしばらく、思い出すだけで猛然と腹立たしくなってくることがあります。
結局のところ、語感の違いというのか、センスの問題だと思うのですが、突き詰めれば、その人の人生観や人間観が問われるわけで...。
数年前からずっと気になっていたものの、(ま、あの人だから仕方ないか)としぶしぶ納得していたのに、なぜか、そのエピソードが引証として、よそでも使われていることを知ってしまった...。
はっきり書きましょう。元はと言えば、『あなたに今できること:犬養道子 若き女性に語る中央公論新社2001年1月)を、2001年2月に自宅で読んだ時から、ずっと引っかかっていたんです。
今は処分してしまい、手元にないので確認できないのですが、確か、この本は、神戸女学院と聖カタリナ女子大での講義や講演を再現したものだと記憶しています。神戸女学院の時には、「芦屋など、この辺りに住む人々は、文化程度が高いので」とか何とかおっしゃっていたのにも、カチンときました(←お金持ちが住んでいるから、そうおっしゃったのだろうと思いますが、でも、JR芦屋駅辺りでは、1998年頃には「指つめ注意」なんて表示が出ていたんですよ。普通、「ドアにご注意」などと書きませんか?)。しかし、最も嫌悪感を覚えたのが、‘UNDERSTAND'の定義というのか、使い方というのか、意味についての講釈でした。
おおよそ、次のような内容が書かれていたかと思います。(繰り返しますが、これは正確な引用ではありません。)

「理解する」とは、何ですか。(学生に指名するが、もじもじして要領を得ず。)はい、英語では‘understand’です。これは、‘under’(下に)‘stand’(立つ)・・・・・「下に立つ」という意味です。私達は、自分が上に立って、自分の立場から相手を見ることをしがちですが、自分が下に立って、相手の立場になってみて、はじめて相手のことを理解できるのです。

(なんじゃこれは!)というのが、第一印象。小学生でも、こんなこと言いませんよぉ。
「理解」とは、文字通り「理(ことわり)」を「解する」じゃないですか?どうして、ここで「上」とか「下」とかが出てくるのか?しかもなぜ、突然、英語が飛び出してくるのか?
では、どうしてドイツ語では「理解する」を、‘unterstehen'ではなく‘verstehen’と言うのですか。ついでながら、スペイン語では‘entender’や‘comprender’と言い、「下に」を意味する‘bajo'を用いませんが、どうしてなんですか。さらには、なぜマレー語では‘faham'を用いるのですか、という問いにも答えなければなりません。
アングロサクソンの言葉では、人間関係の規定に、いちいち「上」とか「下」とかを含意する傾向があるのですか。もしそうだとするならば、どうして、いつから、そのようになったのですか、先生?その語釈に基づく文学者の用例を、一つここで出していただけませんか。
そもそも、問題なのは、「私達は、自分が上に立って相手を見る」という表現。それって、そのように発言している話者が自分のことを指しているに過ぎないのでは?そうだとしたら、これほど鼻持ちならない発言はない、ということになります。
私自身、世の中わからないことだらけで、いつでも必死になって、「少しでもわかるように努めよう」という態度というのか心的傾向が「理解する」の意味ではないか、と...。
ちなみに、手持ちの英英辞典などを引いてみましたが、そんな、相手と同等の「下」に立って、なんて失礼な語釈、どこにも書いてありませんでした。だいたい「わかる」「知る」「悟る」「把握する」などのような意味だと記されていました。あえて、上記に近い語釈を引くならば、「同情的に相手の立場や気持ちに気づく」でした。
だから、「犬養道子」なんだよなぁ。問題点の指摘や世界各国でのエピソードなどは、結構おもしろい視点が提示されているのだけれども、結局、どこかの誰かの受け売りなんですよ、ね。この話だって、多分、どこかの超保守的な西洋白人の神父か誰かが言ったことを、そのまま日本語にしているんじゃないか、と勘ぐってしまいましたが。

さて。犬養道子氏ならば、お育ちからまあ仕方ないか、とも我慢してみるのですが、私の怒りが止まらないのは、この例証を、意外な人達が、あまり深く考えもせずか、使っている場合を見かけた時です。だいたい、教える職業に就いている人か、まだ還暦も迎えていないのに、自分は学者だとか知識人だとか自称しているようなタイプに多いことにも気づきました。たっかい税金をこちらから取っておいて、よくそんな、と思います。

尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:10
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピの信徒への手紙 2:3-4


日本聖書協会新共同訳』からの引用)