ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

世間とはこう言うものです

当時のつねとして、「政治国事犯」は正規裁判以前にすでに編笠手錠、三度許された「面会」の父は、手錠に結えられた縄で曳かれて来た。変ったのは父の姿だけではない、世間と言うもの人間というもの、いかにそれらが手の平をかえして変ったことか。笑顔と世辞でうるさいまでに近づいていた人であるほど剣もほろろに去ったのである。「何でもお力に」といつも言いいつも玄関に来ていた人に、弁護士の相談をと電話をすれば、がらりと変った声音で、「犬養?大したつきあいも日頃ないのに、電話など迷惑です」と急いで切った。(中略)


母は静かに言った、道ちゃん、世間とはこう言うものです、驚いては駄目よ。(中略)


....母はこの時も再び言った、道っちゃん、世間とはこういうものです、驚いちゃ駄目よ....私が「世間」と「世間のはやり」と「世間の評価するすべてのこと」を、仕事上にせよ私事にせよ、評判にせようわさにせよ、「世間」の呉れる「有名」にせよ、人生途上唯一の、軽蔑すべき無益なるものつまらぬもの浮草のものとして無視するようになったのは、あの時の体験からである。考えてみれば滑稽であった。世間が昨日「有名人」としてちやほやし、今日「犯人」として切り棄てようと、当の本人の中味は全く変ってはいないのである。本人は昨日も今日も同一なのに、彼を照らしていた陽光が風雨を帯びた暗にうつろったと言う、ただ、それだけのために、彼を見る「世間」の眼は、くだらぬ流行のように変るのである。そう言う世間と言うものに便乗し、おもねりへつらい、気兼をすることは、自ら己れを棄てることだ。自殺の中の最も軽蔑に値する自殺だと、私ははげしい思いで思ったのであった。


犬養道子ある歴史の娘中公文庫1980/1993年)(pp.286-288)

「書くことはただちに彼らのプライバシイ―ほうってもらいたい気持と権利―を侵すことにつながる。それは決してしてはならないこと、であった。」(「あとがき」p.443)を踏まえた上で、昨日も言及した犬養道子氏の文章を引用いたしました。似たような話が、しばらく前の朝日新聞夕刊の小さなコラムで、現総理とその周囲の方々に関しても書かれていたからです。
まさかとは思いますが、不特定多数の読者に向けて電子版で記しているブログのため、昨日の内容について誤解なきよう、上記の文を付け加えさせていただきます。