ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

なすがままにさせておきなさい

おとといの夜は、大阪で佐藤全弘先生のご講義、昨日は、大学病院と、時間を間違えて神戸へ出かけました。このところ忙しく過ごしています。まだ、旅の余韻も冷めやらぬままで、荷物もすべてが整理し終わったわけでもありませんが、一期一会のチャンスは逃せないので、仕方がありません。
大阪では、イスラエル旅行でお世話になったS先生が7月上旬に急逝されていたことを知らされ、驚くと同時に、あの時ご一緒させていただけてよかったなあ、としみじみ感じました。
マレーシアから送った計4箱の書籍荷物も、「2週間かかる」と言われていたのに、結局、1週間ですべて無事に届きました。ありがたい話です。
ところで、今度の2週間の旅で、いろいろな方にお目にかかったのですが、今日のところは、グレゴリアン大学で聖書学を専攻したマラヤリ系カトリック研究者、ブルーノさんのことを簡単にご紹介しましょう。
彼とは、もうかれこれ9年ほど前から、偶然ばったり出会うという形で、何度かお話しています。話のレベルが合うというのか、お互いにしゃべっていて楽しいので、暇があれば数時間、忙しくてもつい、立ち話で15分ほどになってしまいます。今回も、アポもとっていないのに、お茶を飲みに外へ一人で出てきた彼とうまい具合に出くわし、再会を喜び合いました。
彼が毎月書いている記事を私も日本で読んでいるので、その感想や読者の反応などについて率直に述べると、とても喜んでくれました。ただ、カトリック大司教が、週刊新聞『ヘラルド』の「神の名」の件で裁判を起こしたものの、なんやかんやで、延期そして延期の連続である現在について言及すると、「恐らくカトリック側は敗訴するだろう。でも、それでよい。歴史的事実をねじ曲げてまで相手の宗教上の権利を押さえつけようとする輩(一部のムスリム集団)のことなど、放っておきなさい。彼等のなすがままにさせておきなさい」と、悠然たるものでした。
へぇ、これがカトリックの強みなんですね。一つ、また学びました。
カトリックと言えば、昨日、神戸でお聞きした話としては、池長大司教のご勇断と度量の大きさです。ベネディクト16世が、カトリック復興のような「狭い」了見を示すと、即座にヴァチカンへ電報を打ち、神戸では、プロテスタントカトリックが共に礼拝し、一緒に聖書を学んでいるというのに、そんなことでは困ります、というような反論をされたそうです。このように、小さな群れであっても、代表責任者として、群れを守るために的確な対応をとれることが、よき指導者の資質なのでしょう。
これに関して、マレーシアでおもしろい(と言ってもいいのかどうか)話を聞きました。国内外で有名なあるマレーシア人プロテスタント指導者のことです。その人は次代の司教になりたがっているのだけれども、教会の人々は皆、彼になってもらいたくないと思っている、とのこと。その理由は、「あの人は何を考えているのかわからないから」のようです。また、学位は立派なのに、博士号取得以降は何ら論文らしきものを書いていないから、との由。
それについては、個人的な接触から、実は私にも心当たりがあります。日本のキリスト教に対する理解の不備どころか明らかな偏向も認められましたし、会合文脈や相手によって、話をあっちに合わせたり、こっちに合わせたり、愛想がよくなったり、悪くなったり、態度がころころ変わる人だなあ、と感じてはいました。ただ、本人がいくら司教になりたくても、皆がそれを認めないとなれば、深刻な話です。
上記友人ブルーノさんの「なすがままにさせておきなさい」を想起させます。結局のところ、こちらが(あれ?)と思うことは、現地の人々にとっても(あれ?)なのでしょう。だとすれば、何も恐れるものはありません。