ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

気を遣ってもらうムスリム

「いいなぁ、ムスリムは。みんなに気を遣ってもらって...」と私が言うと、主人が即座に言い返した。
「何もいいことないよ。人に気を遣ってもらうってことは、それだけ半人前扱いされているということで、まともだと見なされていないってことでしょう?普通は、誰でも自分のことは自分でするのが前提。できないと見なされているから、気を遣われているんだ。どうして、そんな変な考え方の人をうらやましがるかなぁ?」
でも、過去の私の周囲では、特に大学では、ムスリムに気を遣うのが当然の礼節であるかのような雰囲気だった。非ムスリム側が配慮して祈祷場所を作ったり、祈祷用の足洗い場までできた大学もある。また、被害に遭っている非ムスリムを黙らせた上で、「ムスリム批判をしてはいけない」などと、変なことをもっともらしく言う人々が多かった。そのような訓示を真面目に聞くと、とんでもない人生の浪費になる。
今回のダッカ事件で、ようやく目覚めるのではないか?本来は、1997年のルクソール事件で目覚めてほしかったところだ。欧米の保守派、特にアメリカの保守派は、さすがに活発に言論展開をしてきた実績がある。彼らを「イスラーム恐怖症」「ヘイト・スピーチ」「宗教右派」だとレッテル付けして済ませてはならない。中身の検討が大切だ。
幸い、私には国政モニターで意見を表明する権利を与えられている。申し訳ないがこれからは、日本本来のあり方を取り戻し、我々が主体的に生きていくために、はっきりと、「ムスリムに対しても甘い態度を取るな。特に大学を隠れ蓑にするな」と具申していきたい。例えば、多重婚をしている外国人ムスリムには、たとえ大学教員だとしても、即刻、本国に帰国していただきたいものだ。日本は多重婚を認めない国だからだ。
私が最も言いたいのは、日本人がもしイスラーム改宗したならば、ムスリム圏に移住した方が暮らしやすいのではないか、というものだ。十年ぐらい前だが、イスラーム掲示板などを見ていた時、「日本国憲法シャリーア法で置き換えたい」「日本の若い女性は裸同然の服装で歩いている」など、変なことが平気で日本語で書かれていたことを思い出す。
当時は、「そういう人もいるってことでしょう?」と却下されたものだが、たとえ少数派でも、人を大量殺害できるのだ。甘く見積もってはならない。
多文化主義などと左派思想を安易に取り込んでしまったから、最近の大学はおかしくなった。いい加減にしていただきたい。
ジハードとは、イスラームの領域を広げていく行為を意味する。戦闘行為のみならず、ペンと教育(説得)によって文化的知的にもイスラームを推進することが含まれる。「知識のイスラーム化」などは、論文にして国内で広めるのではなく、したければ、あくまでムスリム圏で行って欲しい。そのような唱道は、日本国内で推進すべきものではなく、あくまで他者として理解した上で、我々非ムスリムが断固却下すべき対象だ。