ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アマゾンの『ロシア革命史』

アマゾン(https://www.amazon.co.jp)でリチャード・パイプス(著)/西山克典(翻訳)『ロシア革命史』(2000年6月)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140917)を検索すると、以下のような読者コメントが出てきた。

2012年6月4日


マルクスが想定していた、イングランド、フランス、プロイセンなど、資本主義が比較的「進んだ」地域では全く起こらず、ロシアをはじめ資本主義が全く遅れ、家族主義、家産制、前近代が残っている地域でのみ永続した社会主義共産主義体制。本書でのパイプス博士は、その発端となったロシア革命(クーデタ)を徹底的に論じあげている。発端で起こったことはパイプス博士の母国ポーランドにも及んだ


結果、パイプス博士、ブレジンスキー博士、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、そしてヤルゼルスキ将軍、マゾヴィエツキ元首相、アダム・ミフニク氏……その他もろもろの優秀なポーランド人が共産主義体制の打倒のためにそれぞれの持ち場で戦うことになったのだ。本書は、「なぜ私が共産主義と闘ったのか」というパイプス博士の理由陳述に他ならない。


理由陳述でさえ熱くならないのがパイプス博士いずれ自分の身にかかわるだろう出来事の発端を研究・論述しているのに、あったことを淡々と述べるその態度は、まさにパイプス博士ならでは、である。


そしてどんな時でもユーモアを忘れないマルクスを批判するにしても、「マルクス貨幣経済に関する膨大なナンセンスを書いたが…」とあくまで余裕の視線である。同じポーランドからの合衆国への亡命組でも、ブレジンスキー博士の方が熱いぐらいだ。


スターリン宮本顕治が間違っていてもレーニンは…とか、レーニンは間違っていてもローザ・ルクセンブルクやリープクネヒトは…とか、彼らが間違っていたとしてもマルクス自体は…、と粘る共産主義者たちには、マルクス主義は根本から間違っていることを指摘するにしても、パイプス博士のようなこうした余裕の視点が一番堪えるであろう

2008年6月20日


ロシア革命の前史であるロマノフ王朝治世下の19世紀から、レーニンの死までをさまざまな角度で描いた臨場感あふれる書物である。


アメリカの保守派である著者が、ボリシェビキに対し徹底して批判的なのは当然であるが、イデオロギー的に偏向することなくケレンスキーや右派勢力に対しても批判の矢を放っている。コルニーロフ叛乱などは、他のロシア革命史で言われているような単純なものではなく、複雑な経緯があったことがわかる


今までよくわからなかった内戦時の白軍の政治的立場も、かなりの説明があり、勉強になった。


結論部におけるパイプスの見解の中で、いまひとつ納得がいかないのが、ボリシェビキの行動原理が徹底してマルクス主義イデオロギーによるものだと再三、再四強調されているのに、ソ連の体制の形成はイデオロギーよりもロシアの伝統的な家産制によるものだ。とし、「イデオロギーは重要ではあるが、過大視されるべきではない」としている点である。マーティン・メイリアの主張するように「ソ連共産主義イデオロギーによって、それ以前のロシアとは断絶している」と考える私にとっては首肯しかねる点である。ロシア的伝統によって、マルクス主義が歪曲されたとみなすことはマルクス主義擁護につながりやすい。これには、マルクス主義それ自体の根本的な検討が必要であろう。

(引用終)

リチャード先生が亡くなって、ちょうど一ヶ月になる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180527)。
ご生存中は、(お目にかかれるうちに)と常に焦るような、(自分の人生と並行して理解を進めなければ)と圧倒されるような、矛盾する思いだった。埋葬された今、この世におけるリチャード先生のお時間が止まったことになるので、ようやく落ち着いて向き合えるようなパラドックスを感じる。
最期まで、お皿をきれいにして食事をしっかりと摂り、クロスワード・パズルの雑誌を手にし、ベッドの傍らに数冊の時事雑誌を置く人生でいらした。
息子さんやお孫さん方は、それぞれの思いを抱きつつも、各自の生活に戻り、人生の歩を進めていらっしゃるようだ。
恐らく、いらっしゃらなくなったことの喪失感は、これから募ってくることだろう。