ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

クンデラが投げかける問い

買い物のついでに立ち寄った小さな本屋さんで新刊雑誌を見ると、著名人の書棚が写真に掲載されていました。
意外に乱雑だなと思ったのが、日野原重明氏。あまりにいろいろ活動されているからなのか、単に秘書にも整理させたくないのか、実はそういう性格なのか、(ふうん)といった印象。安藤忠雄氏や田辺聖子氏の本棚は、実に整然としていて図書館のようでした。もっとも、安藤氏の場合、いつかは大学図書館などへ寄贈するつもりで集めた書籍も多いようなのですが。
それはともかく、あんなにご多忙なのに、よくここまで本を収集して読まれているんだなあ、とびっくりするやら敬服するやら。本を読めば頭が良くなるかとか、読書好きの子どもは成績がいいかどうかなどと、巷ではよく議論になりますが、この私を見てもおわかりのように、本など、読んでもさっぱり鳴かず飛ばずという者もおりますので、あまり現実離れした期待はしない方がよろしいかと...。むしろ、どんな本をどのように読んでいるかが焦点だろうと思います。若い頃の私は、現実逃避や単なる暇つぶしの意味でも、今から思えばつまらない本を読んでいた時期が、確かにあります。だから今、教養のなさを埋め合わせしなければと必死になっているのでしょう。本当に、この歳になってからでは遅過ぎるのですが。二十代の間に済ませておくべき課題でした。でも、まだ何とか間に合うかもしれないなどと、自分を騙し騙しがんばっているところです。
今日は、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ千野栄一(訳)集英社1993年)から、印象に残った哲学的なおもしろい文を、例によって列挙してみましょう。これも、単なる自己満足なのかもしれませんが、もしかしたら、これを読まれたどなたかにとって、何かの拍子にご参考にでもなることがあればと思ってのことです。

人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。(p.12)
しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を実験で確かめるいかなる可能性も持たず、従って自分の感情に従うべきか否かを知ることがないのである。(p.43)
人間は救いようのない絶望のときでさえも、自分の人生が美の諸法則によって構成されるということを知らずにいるのである。(p.63)
人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。(p.63)
誠実さがわれわれの人生に統一性を与え、それがなければ人生は何千もの瞬間的印象に分かれてしまうであろう。(p.106)
・カルバン派の信仰はもう何百年も前に教会を雨や雪から信者の祈りを守るため以外の役目を持たない、単なる格納庫にと変えていたのである。(p.128)
ちょうどミサが行われていた。当時、宗教は体制により迫害され、大部分の人は教会に行くのを避けていた。ベンチに座っていたのはただ年寄りの男女だけであった。というのも、この人たちは体制を恐れていなかった。その人たちが恐れていたのは死のみであった。(p.129)
本当に重要な問いというものは、子供でも定式化できる問いだけである。もっとも素朴な問いだけが本当に重要なのである。問いにはそれに対する答えのない問いもある。答えのない問いというものは棚であって、その棚の向こうへは進むことが不可能なのである。別ないい方をすれば、まさに答えのない問いによって人間の可能性は制限されていて、人間存在の境界が描かれているのである。(p.161)
まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向う側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。(p.257)
小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。(p.257)
人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。(中略)歴史も、個人の人生と似たようなものである。チェコ人の歴史はたったの一度しかない。(p.259)
歴史も個人の人生と同じように軽い、明日はもう存在しない舞い上がる埃のような、羽のように軽い、耐え難く軽いものなのである。(p.260)
・ヨーロッパのすべての信仰の背後には、宗教的であれ、政治的であれ、創世記の第一章があり、世界は正しく創造され、存在は善であり、従って増えるのは正しいという考えが出てくる。われわれはこの基本的な信仰を存在との絶対的同意と呼ぼう。(p.287)
これは単なる共産主義への政治的同意ではなく、まさにこのような存在への同意であった。「共産主義万歳!」ではなく、「生活を生きよう!」であった。共産主義政治の力と虚偽はこのスローガンを自己のものにした点にあった。(p.289)
他人に対する関係のどの部分がわれわれの感情、すなわち愛、反感、善良さ、敵意の結果であり、どの部分が個々人の間における力の政策によって前もって定められているのか確信をもっていうことはできない。(p.331)
人間の真の善良さは、いかなる力をも提示することのない人にのみ純粋に、そして自由にあらわれうるのである。(p.332)
われわれ旧約聖書の神話で育てられた者には、《天国》の思い出をしてわれわれに残った情景が牧歌であるということができよう。(p.339)
僕が興味があるのは、彼が教会に属するのは、体制によりよく抵抗できるからなのか、それとも本当に神を信ずるかなのだ。(p.354)
僕はいつも信仰ある者を称賛していた。彼らには僕が拒否されている超感覚的受容という何か特別な才能があるように思っていた。(p.354)
悲しみは形質であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。(p.362)

最後の一文が私にはよくわからないのですが、その他の文は、好悪や反発などの感情をひとまず置いて、よく吟味してみる必要のあるものかと思います。例えば、「教会に属する」目的が、体制抵抗のためか、神信仰のためか、という文については、日本の場合も充分当てはまるケースがありますし、「一度限りの生」についての表現の仕方、見方は非常にユーモラスであり、シニカルでもあると思われます。
こういう風に、速読ではなく、日を置いて時間をかけてのんびり考えるのが私のやり方です。そんなに本を何冊も読めないのは、そのせいでもあります。