ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ミラン・クンデラを読む 《続き》

この時期、寒くもなく暑くもなく、一年中で最も希望に満ちた時のはずなのですが、どうも黄砂と花粉の影響が今年は強いらしく、薬を飲んでも(飲まなくても)、頭がぼんやりしています。あ、いつものことかもしれませんが。喉まで痛いのが、いやですねぇ。
ところでこのブログ、更新しなくても毎日カウントが上がるということは、書いても書かなくても、たいした違いはないという意味なのか、それとも、過去に書いたものがどこかで検索に引っかかっているだけというのか...
元気な人なら、この春休み、多分、海外でフィールドワークか何かに勤しんでいらっしゃることでしょう。うらやましいというより、そんなことも自分にはあったなあ、という感じです。何しろ、まだ整理されていない文献コピーや読んでいない本がたまっていますから。それに、フィールドに出れば新鮮な発見があるかどうかについては、必ずしも保証の限りでもないでしょう。
予定がぎっしり詰まっていれば充実した日々だといえるかどうか、私にはやや疑問です。ある程度一人で過ごす時間が確保されていた方が、自分なりに納得のいく過ごし方のように、子どもの頃から思っていました。
というわけで、このぼんやりした季節に、ミラン・クンデラの小説を集中して読んでいます。ご本人が自分で好きだと特定している作品に目を通さなければ話が進まない、ということで、『存在の耐えられない軽さ』に始まり、『冗談』へと進み、昨日からは『可笑しい愛西永良成(訳)集英社文庫2003年)を読み始め、同時に『生は彼方に《新版》』>』西永良成(訳)早川書房1978/1995年)を借りてきました。こういう風に、ある特定の著者の作品を一気に読めば、何かが自然とつかめるだろうとの算段からです。もちろん、文学作品であっても、論文や評論やエッセイなどと同様、気になる箇所には付箋を貼り、新出漢字(?)には斜めの付箋をつけてノートに書き出す作業は怠らずにしています。
今のところは、『存在の耐えられない軽さ』が一番おもしろく読めたかな。トマーシュとテレザの関係が、哲学的思索文を挟み込んで、コケティッシュにも哀れにも、突き放したような虚構上の実存として描かれており、章立ての構成も、交響曲ソナタ形式のように、独特で新鮮でした。学部生時代に、故千野栄一先生が、なぜ自分がチェコ語を夢中になって文化センターでも教えているかといえば、チェコ文学にはその苦労を補っても余るほどの作品が含まれているからだ、という意味のことを書かれているのを読んで、いったいそのチェコ文学とは何なんだ、と興味を持っていましたが、ようやく今になってそれを味わう機会に恵まれたというわけです。遅いといえば遅い、でも、機会が与えられたことは確かにありがたい、と思います。
もっぱら共産圏の実情の描かれ方に目が留まりやすいのですが、どうやら著者本人にとっては、共産圏批判が主眼なのではなさそうです。ミラン・クンデラと言えば、最近もネット情報で、チェコ市民権を剥奪され、フランス市民権を取得した亡命者だとされていたのに、実は自身も密告者だったとか、報道されているのを見つけました。いずれにしても、本人にとっては、チェコ脱出も命がけだったのでしょうし、何を言われようとも生き延びるための方策だったのでしょう。それとも、単なる誤解が誤報されているだけなのか。事情はよくわかりませんが、話題になっている著者の作品をまず読んでみないことには、報道そのものの意味もわからないでしょう。