ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

トーマス・マンの『無常礼賛』から

》Wann machst du das alles nun?《
今週、ラジオでドイツ語を勉強中、トーマス・マン(1875-1955年)の随想“Lob der Vergänglichkeit”(『無常礼賛』)に出てきた一文です。
今日はこの文章について、少し書いてみたいと思います。実は、復習を兼ねて再び聞いたものなのですが、やはりドイツ語は、硬派のいい文章を少しずつでもじっくりと読まなければならないなあ、と感じると同時に、少なくとも私にとっては、内容を自分の身に引き寄せて考えるための「時間の確保」をどうするか、という問題を提起するものであったと思います。
この文章は、NHKテキストによれば、1952年、アメリカのラジオ番組“This I Believe”(←いかにもアメリカらしいタイトルのつけ方!)のために書かれ、その後、ドイツで発表されたものだそうです。(NHKラジオ2008年度『アンコール・ドイツ語講座〔応用編〕パートⅡ 』p.211)
冒頭の一文は、「一体いつ、こんなに全部やっちゃうの?」(拙訳)という意味なのですが、私もそう尋ねたいような人を周囲に知っています。遠方に住んでいる人で、私よりもかなり若い女性ですが、毎日、呆れるぐらい多くの仕事をせっせとこなし、しかも、疲れただの、嫌になっただの、あの人が自分にこう言ったから不愉快になっただの、といった愚痴をめったに聞いたことがないのです。見上げるような模範です。まさに、》Wann machen Sie das alles eigentlich?《 (「ところで、一体いつ、こんなにあれこれやっていらっしゃるのですか?」)と私は聞いてみたいのです。しかも、ドイツ語で。

マンは次のように書いています。

‘So ist es mit der Zeit schöpferischer Menschen: sie ist von anderer Struktur, anderer Dichtigkeit, anderer Ergiebigkeit als die locker gewobene und leicht verrinnende der Mehrzahl, und verwundert darüber, welches Maß an Leistung in der Zeit unterzubringen ist, fragt wohl der Mann der Mehrzahl.'

(テキスト訳:「創造的な人間の時間も同じです。彼らの時間は、ゆるく織られ、移ろいやすい大多数の人々の時間とは違う構造、違う密度、違う豊穣性を持っているのです。そして、なんという量の仕事が時間の中に盛り込めるのだろうと驚いて、大多数の人々の代弁者はこう尋ねるのです。」(p.221))

当然のことながら、私は「大多数の人々」の一員で、その若い人は「創造的な人」の典型人です。この違いはいったいどこから来るのか。DNAなのか、生育環境なのか、鍛錬によるものなのか。

しかし、ほざいている場合じゃありません。マンの定義によれば、‘Urzeugung’(根源的創造)とは、大ざっばに私が考案した次の図式で表されるそうです(p.216)。

Nichts(無)→ Sein(存在)→ Leben(生命)→ Mensch(人間)

Leben(生命)には、‘Wert’(価値)と ‘Seele’(魂)と ‘Reiz’(魅力)とを付与され、また、‘Vernunft’(理性)や‘Kulturfähigkeit’(文化能力)が付加されることによって、動物的なものから「人間」が出現したのだとも述べています。(ここで‘Seele’(魂)が出てくるところが、いかにもドイツ的だと思いますが。)

マンは、「人間を自余の自然から区別するもっとも本質的な特徴の一つ」として、「無常、始まりと終わり、つまりは時間という贈り物について知っているということ」を挙げています(p.220)。

Zu den wesentlichsten Eigenschaften, welche den Menschen von der übrigen Natur unterscheiden, gehört das Wissen von der Vergänglichkeit, von Anfang und Ende und also von der Gabe der Zeit.'

このテクスト全体の冒頭では、マンは、「無常」が「時」を作り出し、その「時」とは、「創造的」「活動的」「活発さ」「意思と努力」「完成」「より高きもの」「よりよきもの」に向かう進歩と同一だと述べているのですが(A)、テクストの中盤では、実は、中でも最も目覚めた「魂」である人間こそが、「時間」を「贈り物」だと知っているが故に、「時間」に高い意義を与えるのだというのです。その意義とは、「時間を聖なるものと化」し、「孜々として耕すべき畑をそこに見」て、「活動と倦むことのない努力の場」「自己完成の場」「人間の至高の可能性への歩みの場」として「無常ならざるものを戦い取る」ことだそうです(B)。

(A) (p.212)

‘sie (Vergänglichkeit) ist die Seele des Seins, ist das, was allem Leben Wert, Würde und Interesse verleiht, denn sie schaffet Zeit,ーund Zeit ist, wenigstens potentiell, die höchste, nutzbarste Gabe, in ihremWesen verwandt, ja identisch mit allem Schöpferischen und Tätigen, aller Regsamkeit, allem Wollen und Streben, aller Vervollkommnung, allem Forschritt zum Höheren und Besseren.’ 

(B)(p.220)

‘Die Beseeltheit des Seins von Vergänglichkeit gelangt im Menschen zu ihrer Vollendung. (....) Aber die seine ist die wachste in ihrem Wissen um die Auswechselbarkeit der Begriffe 〉Sein〈 und 〉Vergänglichkeit〈 und um die große Gabe der Zeit. Ihm ist gegeben, die Zeit zu heiligen, einen Acker, zu treulichster Bestellung auffordernd, in ihr zu sehen, sie als Raum der Tätigkeit, des rastlosen Strebens, der Selbstvervollkommnung, des Forschreitens zu seinen höchsten Möglichkeiten zu begreifen und mit ihrer Hilfe dem Vergänglichen das Unvergängliche abzuringen.’

結局のところ、所与のものをどう受け止めて活かしていくかが委ねられていて、それが成功するか失敗するかは、人間如何だというのが、マンの主張のようなのです。 

マンの主張はわかったのですが、どうもこれ、先日の犬養道子氏の冒頭の文章(参照:2009年3月17日付「ユーリの部屋」)にもつながる考え方だと思いません?私には、どうもそんな気がするのですけれども。

私にとっての最大の問題は、今日はたまたま時間ができたので、このようにドイツ語文からブログ文章へと転換できるのですが、普段は、したくても物理的に時間がとれないのです。どうしたものか...。睡眠時間を削ると、途端に頭がより働かなくなる質ですし、困ったものです。他にもいっぱい、勉強したいものや読みたい本や聴きたい音楽があるというのに、創造的な人間になる以前であっても、こんな状態なのですから、人様はいったいどうしていらっしゃるんでしょうか。
》Wie machen Sie das alles eigentlich?《