ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

小説は人生の研究

毎年この時期になると、花粉のせいもあり、木の芽時でもあり、憂鬱になる傾向があります。昨日も、「バッカじゃない?」と言われ続けて、恐怖心の中でもがいていたことを思い出し、すっかりブルーになってしまいました。
結婚してからは、主人に繰り返し「馬鹿で何がわるい?」と言い返され、「だから、そこが克服できれば、自分が思っている以上にもっと前に進めると思うよ」と励まされてきました。実にありがたいことです。
普通、バカバカと言われながら育った人は、結婚相手にも人をけなすタイプを選ぶのだと巷で読んだことがあるのですが、どういうわけか、まるで正反対、こんなに楽でいいのかな、とかえって疑問に思うほどの生活になったのですから。
根が生真面目で余裕がないのでしょうが、(バカじゃないか、頭がおかしいんじゃないか、それでは駄目なんだ、と言われないよう、何とか向上させていかなければならない)と、真剣に思い詰めて自分なりの努力をしてきたつもりです。ところが、主人に言わせれば、「そこがおかしい」。
「そう言う人の方がおかしいってことに、どうして気づかないのか?」「もし向上できたとしても、また言ってくるよ、そういう人達なら」「だから、相手にしないことだよ。自分の人生は自分のもの。人に左右される筋合いはない」。
そこで、昨晩はいささかブルーになりながらも、ゆっくりと考えてみました。ちょうど今の私の年齢が、その人達が私に馬鹿とか駄目とかどうしようもないとか言っていた年に近くなったり過ぎたりしたのですが、振り返ってみると、そういう人達は、今の私ほどには勉強もしていなかったし、本も読んでいなかったし、国外情勢も知らなかった。せいぜい、型どおりの仕事ないしは家事をこなす以外は、昼間、奥様番組なんかを見てたりしたんじゃないか...?学歴とか若かりし頃の「栄光」(?)ばかり誇って、子育てと家事だけしていて、後はいつも子どもと夫のおしりをたたいていただけじゃないか...。あそこの子がどこの大学に入ったとか、誰がいつ結婚したとかしなかったとか、親戚の噂とか、そんな話ばかりだったじゃないか...。「いい学校」は出ていても、それは人生のパスポート代わりで、それ以外は何もなかったじゃないか...。
あ、と目から鱗が落ちた思いでした。それなのに、相手がものすごく高いところにいるように感じて、真綿のような幻想に縛り付けられて、私は人生行路を不当にも歪めてきたのか...。いや、歪めてきたというより、執拗に悩まされてきた、というべきか。
しかしこれ、笑い事じゃありません。条件付きながらも、学生時代に犬養道子氏のエッセイに励まされてきたと書いたのも(参照:2009年3月17日付「ユーリの部屋」)、実は氏が、都市部に住む中流家庭の日本女性とは話が通じにくい、と愚痴をこぼされながら、痛烈に批判していた時代風潮とちょうど合致するからです。だから、必ずしも私の事例が「不幸な失敗例」だとも言い切れないわけです。(それゆえに、ブログにも公表できる!)

ミラン・クンデラの小説とこの時期に出会えてよかったなあ、と思う理由の一つには、そういう自分なりの省察(?)ができるきっかけを与えてくれたからです。そして、共産主義批判の政治小説としてのみ読まれることを極度に嫌い、次第にインタビューも拒否するようになったクンデラ氏を、なるほどなあ、と思えるようになってきました。『存在の耐えられない軽さ』の「テレザ」の母親、あるいは、『生は彼方に』の「ヤロミル」の母親は、いささかエキセントリックな人として描かれているけれども、私、知っていますもん、そういうタイプの女性がいるってことを。小説を読めば、共産圏だったチェコ事情にも興味がわいてくるけれども、同時に、日本の、いや、私の周辺に近いことも、しっかりと書き込まれ、描かれている、と思えます。何よりも、着眼点と表現の仕方が絶妙!
繰り返しになりますが、多忙だからといって、情報誌や論文や専門誌や論説文のようなものだけでは、人は判断的になってしまう。小説(と言っても、気晴らしや時間つぶしのような軽い読み物ではなく、きちんとした文学)を読まなければならないのは、別の角度から自分なりの人生を考えさせるからです。ミラン・クンデラは言っています。「小説とは、人生の研究である」と。

《参考資料》
Philip Roth interviews Milan Kundera (30/11/1980) (http://www.kundera.de/english/Info-Point/Interwiew-Roth/interview-roth.html

私は悲観主義とか楽天主義とかいうことばに慎重になっています。小説というものは、何ら主張はしません。小説は、探求し、疑問を呈するものです。私の国が消えるかどうかは知らないし、登場人物のどれが正しいかもわからない。私は物語を作り、相互に対立させ、それによって問いを発するのです。人の愚かさは、何でも質問することからくる。ドン・キホーテが世の中に出て行った時、彼の目には不可解に映った。それが、小説史全体に対する最初のヨーロッパ小説の遺産なのです。小説家は、読者に世の中を問いとして理解するよう教えます。その態度には、叡智や寛容さがある。不可侵の確かさに基づく世界では、小説は死ぬ。マルクスであれイスラームであれ、その他の何であれ、全体主義的な世界は、問いよりも答えの世界である。そこでは、小説の居場所がない。いずれにせよ、私には、昨今、世界中で人々が理解することよりも判断することを好んでいるように思われる。それで、小説の声がほとんど聞かれなくなり、人間の確かさといううるさく馬鹿げたものが聞こえてくるのです。

 (以上拙訳)