ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『愛と死をみつめて』

愛と死をみつめて』という白黒のテレビ・ドラマを子供の頃、見た覚えがある。確か、片目を黒く縁取りして、その箇所を手術するというシーンだった。主題歌のメロディの冒頭は今でも覚えている。

今では本当に便利なツールができたもので、ふとしたことから、原話について大凡の筋を知ることとなった。

主人公のミコさんは兵庫県西脇市出身で、顔に骨肉腫ができる難病に侵されていた。阪大病院に入院中の時、知り合ったマコさんという男性と三年ほど文通を始める。
マコさんは、大阪駅でビール配りのアルバイトをして、金銭的にもミコさんを支える。
ミコさんは、その後、同志社大学に進学したが、四年生の時、結局は病のために逝去する。
マコさんは、中央大学に進学したものの、中退して写真の勉強を始め、その後はフォト・ジャーナリストとしての人生を歩んでいるらしい。

その後、この実話は映画化され、本もミリオンセラーになったそうである。まだ読んではいないが、察するところでは、ミコさんの志高く聡明な資質が、病のための夭折という悲劇と折り重なって、人々の純愛志向を刺激したものらしい。
これは、三浦綾子氏の前川正氏との文通による「純愛」を彷彿とさせるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170524)、当時は今よりも、死というものが我々のもっと身近にあったことを併せて想起させる。
もしもこれが、新薬開発で見事に完治した、あるいは治る見込みがでてきたとなれば、文通も違った展開になったはずである。
また、文通の書籍化がミリオンセラーとなったことにより、一時期は相当に有名にもなり、お金も入ったことだろう。大学病院での出会いから、真っ直ぐな遺志を貫く人生というのも、なかなか困難だろうと想像する。

ともかく、難病といい、阪大病院といい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090226)、大阪駅といい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)、同志社大学といい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C6%B1%BB%D6%BC%D2%C2%E7%B3%D8)、私の人生行路と重なっている接点が多い。とはいえ、私が難病なのではなく、患者は主人である。

さて、今ではiPS細胞の研究が進み(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111130)、京大が新たな外科治療法を編み出して、今後、実験治療に向かうらしきニュースが最近流れてきた。ありがたいことではあるが、年間、数百万円ほどかかるとのことで、ここでも経済格差の問題が生じる。

「難病だから、もう人生終わりね」と早々と断定されて、「悪いようにはしない」と言ってくれていた父からの遺産の分け前もゼロのままで放置された私達のような場合(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)、なけなしの貯金を下ろして試みる手術なのだろうか。
「手術は成功した、だが患者は死んだ」という言葉があるが、「手術は成功した、だがその後の生活費がない」という場合、誰の責任になるのだろうか。

亡父も晩年の数年間は、主人と同じ病気だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170830)。従来、一般的には老人病と認識されてきたため、若年性で発症した主人の場合、精神的心理的な葛藤は、並々ならぬものがあったはずである。
そんな時、今でも振り返ると、結構いい加減な、我々を路頭に迷わせるようなことを平気で言ってきた人々もいた。クリニックの医者とか、教会の牧師等である。
「半年ほど仕事を休んで、南の島でのんびりと波と戯れたら、よくなる」「マレーシアに来て転地療養してみてはどうか」等だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170112)。
今は亡きヨーガの講師が「ヨーガで治る」「是非とも治してあげたい」「また東京に来なさい」と熱心だったのは、当初からどこか変ではあったが、ヨーガで生計を立てる必要性から、こちらのことは何も考えていなかったのであろう。
それでも、病人心理というものは不可解で、一時は本気で「会社を止めて、パン屋を始めようか」「有給を全部使って、休んで治るなら、安いもんだ」等と、主人は言っていた。
あの頃、夫唱婦随を真に受けて実践していたら、今頃、私達の生活はなかったも同然である。
そして、上記の牧師(東大卒で元NHK勤務)だった人は、どういうわけか、今では全く音信がない。

ちなみに、昭和10年生まれの父は薬害を信じ込んでおり、薬は極力避けて自然治癒こそが良いと思っていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)。大変な病気なのに「薬を飲みたくない」と主張して、主治医と議論になったそうである。それを聞いた私は、大学病院か日赤などで診てもらうように電話で言ったが、何だかものすごく抵抗されて、結局は、そのままだったようである。
これは珍しい話ではない。主人が京都の宇多野病院に通っていた頃、主治医はその分野で有名な女医さんだったが、私達が待っていた時、すぐ前の患者さん夫婦を厳しく叱り飛ばしていたのを覚えている。一時的に薬が効いて「治った」ように錯覚したらしく、薬を自己流で止めてしまったからである。それは、医師の目には非常に危険な行為であって、叱るのももっともだと私は学んだ。

こうしてみると、自分の専門分野だけに埋没するのではなく、また、人間関係に凭れ掛かることなく、常に最悪を予想しつつ、慎重に堅実に余裕を持って人生を歩むことの重要性をヒシヒシと痛感する。
そして、最新ニュースも幅広くキャッチして、誰の言動が妥当なのか、毎日のように判断力を訓練し続けなければならない。
興味を惹かれて『愛と死をみつめて』の本を取り寄せ中だが、主人が難病でなければ、恐らく、読むことはなかったか、読んでも違った印象を持ったことだろう。単なるお涙頂戴ではなく、如何に人が移ろいやすくいい加減なものであるか、世の中が世知辛いものか、私はここ十数年来、毎日のように痛感している。