ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

緊急事態発生!

予測していたことが、ついに起こってしまいました。だからこそ普段が大事であり、いざという時のために、前もって何事も早めに余裕を持って準備しておくべきだと改めて思いました。
「個人情報」ではありますが、ブログで公開していることでもあるので、書いてしまいましょう。
今日は建国記念日。通常なら休日なのですが、主人の勤務先は、平日通り仕事日。急いでいたのでしょうが、不自由な体に慢性の睡眠不足が連日続いていたこともあり、気がついたら、顔中血まみれになって帰って来ました。どうも、途中で気を失って倒れたらしく、頭部から大出血。それでも一人で歩いて帰って来たのでした。
大慌てで寝かせ、タオルを何枚か取り換え、まずはゆっくりと休ませました。冷蔵庫に貼っておいた救急医院の連絡先を見ると、午前10時からしか開いていない。というわけで、朝7時半のまだヒンヤリした中を、何度もボウルに水を汲み、血まみれの階段と踊り場を掃除。1時間ぐらいかかりました。幸い、休日だったので、ご近所の方達もまだ外に出ておらず、ご迷惑をかけることも最小限でよかったです。
救急車といっても、最近はタライ回しにされるかもしれず、意識がある以上は、タクシーに乗って行こう、ということになりました。
まずは勤務先に電話をかけ、休ませていただくことを通知。洗濯機を回し、朝食の片付けをしながら、着替えて準備。いつも飲んでいる薬や通院記録をこまごまつけている「健康ノート」と保険証を持ち、電話でタクシーを呼びました。登録してあったために、すぐに来てもらえ、助かりました。気さくで親切な、いい運転手さんでした。
隣の市にある救急センターに着くと、待つこと15分ぐらい。さっさと応対していただき、麻酔をかけて3針も縫う大怪我だとわかりました。全治1週間。救急センターは、文字通り、緊急応対だけなので、一日分の薬を処方されるのみ。明日からは、消毒のため病院通いとなります。
なんでお前は、主婦づらをしてゴロゴロ家にばかりいて、音楽を聴いたり読書をしたりしてさぼっているのか、とお叱りを受けるだろうと覚悟の上で、いつも気を張って生活していましたが、やはり、こういうことが起こるだろうと思っていたからなのです。私が家にいて、本当によかった。しかも不思議なように、日課の山散歩をしていなかったことも幸いでした。それに、昨日はお金を早めにおろしてきたばかりでもありました。これが、学会発表やリサーチなどで、家を空けている時期だったら、どんなことになっていただろうか、と思うとぞっとします。
誰も面倒なんて見てくれません。なるべくなら、健康な人同士で固まって、楽しく生きていきたいものですから。でも私には、夢はないけれど、責任がある。だから、何としてでもやっていかなければならない。その苦肉の策が、今の選択なのです。それでよかったと思います。
15年以上もマレーシアのことを調べ続けていて、うんざりすることも多かったけれども、こういう時、もっと大変な環境の整わない中でも、精一杯、明るくたくましく生きている人々と友達や知り合いになれたことが、私を支えてくれます。また、ささやかながらも、学生時代からずっと、各種団体に送金をし続けているので、自分たち以上に困難な状況にある人々に関する報告書を読み、こちらがかえって励まされているのです。
それに、努めていろいろな本や音楽に触れていると、こういう緊急事態の時にも、精神的に落ち着いていられます。そして、一日一日を「今日が最後」という気分で真剣に過ごすことができ、とっさの状況判断も、まずは及第というところでしょうか。
エルサレム賞を辞退せよという圧力が、村上春樹氏にかかっているそうです。もちろん、イスラエルに対して怒っている人々からです。気持ちはわかりますし、ある程度、予測できた成り行きでもあります。村上春樹氏がどう対応されるかは不明ですし、政治面や軍事面だけを見るならば、確かにイスラエルもやり過ぎの面が否めないと見なされても仕方がないとは思います。それらを踏まえた上で、あえて、「世界中を敵に回しても生き延びろ!」という意気込みのユダヤ系の人々からは、私自身、激励され、勇気づけられていることも事実です。日常生活の中で、いつ爆発や自爆テロが起こってもおかしくはないイスラエル国。2007年3月の旅行でも、お世話してくださった日本人ガイドさん自身が、すんでのところで、自爆テロに巻き込まれそうになった経験の持ち主。でも、こんな話は、イスラエルでは珍しくもないそうです。家族や親戚や知人友人のつながりを辿って行くと、必ず誰かが犠牲者になっているのが珍しくもない話なのだそうです。だから、おさおさ怠りなく、先回って準備万端、整えているという...。状況は全く異なれど、その生き抜く知恵から、私も学びたいと思っているのです。
偶然のことながら、昨晩は、『アンネの日記』を読み返していました。あの隠れ家での異常な2年間、しかも思春期という大事な時期に3家族が同居という信じられない生活を改めて振り返りました。学課の勉強を続け、図書館から本を借りてきてもらって読み、偽名で通信教育を受け、オランダ語以外にも理解可能な諸言語でラジオ放送に耳を傾け、最後まで熱心に祈りつつ生き抜こうとしたアンネ達の姿から、小学生の時にはわからなかった強いユダヤ魂を感じ取りました。日本人で日本に住む私にとっては、条件が最初から違い過ぎますが、それでも、主人の発病以来、ずっと参考にさせていただいているのは、このような人生からです。