ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

リベラル派ヨルダン人の一見解

メムリhttp://memri.jp

Special Dispatch Series No 2148 Dec/15/2008

テロ犯罪は死を目前にした原理主義のあがき、アラブ世界では世俗主義が勝利する―リベラル派文化人ナブルシの主張―
アラブのリベラル派サイトAafaq.orgは2008年5月15日付で、アメリカ在住リベラル派ヨルダン文化人ナブルシのインタビューを掲載した。このインタビューでナブルシは、世俗主義の意味を問い、アラブ世界の将来に対する重要性について論じた。以下そのインタビュー内容である(2008 年5月15日付www.aafaq.org)。

・宗教を汚い政治の世界から引き離すためにも世俗主義が必要
インタビュー記者:あなたの考える世俗主義の概念は何ですか。
ナブルシ:世俗主義とは、聖職者を政治から排除し、宗教政党を認めず、宗教を国家から分離することです。これは、汚いどろどろした政治の世界から宗教を切り離し、聖は聖として保つことでもあります
いつの時代にも政治は宗教を利用してきました。そして宗教と政治の結びつきは、宗教にとって有害であったのです。利用した政治は得をしたが、宗教は失うものしかなかったのです。また、政治家が自分の政治活動に責任を持つためにも、分離が必要です。責任や処罰のがれに宗教を隠れ蓑に使わせないのです、神の名において政治に関与し、いざとなればそこへ逃げこむ聖職者に、責任を問うたり糾弾したりするのは、難しい。
実際のところ、政教分離はスンニよりシーアの方がやさしいのですシーア派の組織は教会のように発展したし、シーア派ヒエラルキーは、教会のヒエラルキア(位階制)に似ていました。つまり双方のヒエラルキーは国家から分離しています。これは、スンニ派の組織とは対照的です。こちらの派は(ウマイヤ朝の初代カリフである)ムアーウィア1世(Caliph Mu`awiya ibn Abi Sufyan)の時から、スンニ組織が国家にとりこまれたのです。国家は、シーアよりスンニの組織を利用しました。シーア派の組織は、アラブ・イスラム国家の体制圏外にありました。スンニ派は国家体制のなかに組みこまれており、政治と宗教が融合し、二つの境界線が消えてしまったので、宗教を国家から引き離すのは、不可能に近いと私には思えるのです。何が宗教に属し、何が政治に属するのか。見分けがつかなくなっています。アラブの支配者が得意とするのが、この合体の計略です。ムアーウィア1世の時代から今日まで変わりません。これは、支配者の「現世におけるアッラーの影法師」化、「ムスリム基金」の「アッラー基金」化に顕現されています。支配者は、アッラーの命令によって支出するという仕組みです。そしてその命令を受ける者は、1400年前ムアーウィア1世が言ったように、アッラーのカリフ、即ち現世における預言者の後継者只ひとりです…。
世俗('almaniyya)を意味するアラビア語は、アラブの政治用語では新しい言葉です。これは我々の住む世界('alam)からの派生で科学('ilm)からの派生語ではありません。つまり、世俗主義がひとつではなく、さまざまな世俗主義があるということになります。民主主義の場合に大変よく似ています。フランスの世俗主義はドイツのものと違い、ドイツのものはイギリスと違い、イギリスのものはアメリカと違い、ケマル・アタチュルク世俗主義と違う。
世俗主義と宗教の間に敵意はない。敵意があるのは世俗主義と聖職者の間
世俗主義と宗教との間には敵意はありません。敵意があるのは世俗主義と聖職者関係だけです。ここが最も肝心な点です。世俗主義を不信心とか無神論ときめつけているのは、聖職者です。宗教がそう呼んでいるわけではない。
カラダウィ(Sheikh Yousuf Al-Qaradhawi)は、「ムスリムの間に世俗主義を求める。その意味するところは、無神論イスラムからの変節である」と言いました(イスラムの覚醒―硬化と過激主義の狭間、1984年112頁)。ほかの本「イスラム的解決は義務にして必要」でも、カラダウィは同じ非難を繰り返しています。世俗主義に反対する聖職者は、政治、社会、経済及び文化上のさまざまな既得権を失い、影響力がモスクの壁の中の説教と指導に限定されるので、反対するのです。
既得権を失い、重要性が限定的になると、聖職者は政治やマスコミのスターではなくなる。大きいことから細かいことまであらゆる問題についてファトワをだし、注目されているが、それもなくなるのです。
宗教は存続します。宗教はフランス、ヨーロッパ全上、アメリカ等々に存在します。信徒の数が減っているとしても、教会の数は増えています世俗主義は神を否定しません。自らを一神教の上に位置付けているわけでもありません。東洋と西洋いずれにも、神の存在を否定する世俗派哲学者や思想家がいますが、それは彼等個人の問題であって、誰も彼等に従うよう強制されることはない…。
インタビュー記者 :政権内で世俗主義者とイスラミストが本当のパートナーを組むことは可能でしょうか。二種の政党の共存は可能なのでしょうか。
ナブルシ:イスラミストが神政国家を熱望している事実に照らして考えれば、そのようなパートナーシップの確立は難しいでしょう。しかし、彼等がこの要求を放棄するのであれば、パートナーシップは建設的なものになるでしょう。宗教国家とは、インドパキスタン系の思想家マウドゥデ(Sayyid Abul A'laa Al-Mawdudi、パキスタンのジャマーテ・イスラミの創立者である)の提唱する「アッラー主権」国家のことです。これは、二人のクッタブ(Sayyid Qutb, Mahammad Qutb)によって受け継がれました。これは一体どういうことかというと、国家の憲法、法律、規則を授けるのはアッラーであり、法の番人が聖職者で、支配するのは預言者の後継である宗教の権威者だけという仕組みです。教えを識別し解釈できる唯一の者であるからです。従ってイスラミストは、複数の政党制と多元論を認めず、己れの党即ち?神の党?('hizb Allah')のみが、政治的機能を認められた唯一の党と考えます。イランの宗教指導者ハメネイ(Sayyid Ali Khamenei)がだしたファトアに「イスラム政府に対する反対は背教」という内容のものがあります。
世俗主義なくして民主主義は成り立たない
従ってイスラミストは、市民と神を信じる者とを区別しない「無差別原則」を拒否します。彼等はこの区別を厳守し、ムスリムだけが市民であるとの立場を崩しません。世俗主義者はこの原則を拒否します。世俗政権下でのみ社会と国家は民主的になる、と信じるのです。民主々義の前提条件は世俗主義です。世俗主義がなければ民主々義もない。性、宗派、信仰、民族の区別なく、すべての市民に権利と義務を平等に認めるからです。これが民主々義の核心、根本原理です…。
・アラブ世界のテロは政治目的のために起きた、宗教上の目的に非ず
インタビュー記者:世俗国家の原則確立で、テロリズムと過激主義に対する闘争問題に目処がつくものでしようか。そして世俗主義が政権のカギを握るようになった時、(宗教上の)きまりや宗教を毀損しないので、信仰の原則を守ることがどうすれば可能なのでしょうか。
ナブルシ:アラブ世界のテロリズムは、宗教ではなく政治上の動機でおきたのです。テロリストは、布教目的でテロをやっているのではありませんイスラムはアラブ世界では充分に普及しているからです。テロリストが欲しいのは政治権力なのです。しかし、権力行使の適性が全然ありません。オサマ・ビンラーディンやザワヒリ(Ayman Al-Zawahiri)が、現在の社会で国家を統治できる適性がある、と思いますか。タリバン型の国家や中世時代の国なら支配適性があるかも知れないが。アフガニスタンイラクパレスチナ、エジプト等々でこのイスラミストは一生懸命何をやっています? 権力欲で凝り固まっているだけではないですか。彼等が権力を握れば、傷つくのはイスラムです。大変傷つく。ハマスに支配されているガザがその例です。犯罪率の上昇、盗難増、女性誘拐、施設攻撃、モスク礼拝の低下、失業拡大、密輸大繁盛と暗いニュースばかりではありませんか。
・現在のテロ犯罪は死を目前にした原理主義最後のあがき
インタビュー記者:御著書で、21世紀は、世俗国家支持派と神政国家支持派の争いになると主張しておられる。そして、結局は世俗傾向が大勢を占めると確信されている。今でもこの考えに変わりはありませんか。世俗主義が勝利するという確信は、何に由来するのです?
ナブルシ:アラブ世界は暗黙の漸進的世俗化傾向にあります。私はこれを「マスクをかけた世俗主義」と呼んでいますが…。アラブ世界の多くの地域は以前からこの趨勢にあり、湾岸数ヶ国も然りです。アラブ世界で世俗化傾向が勝利するというのは、世俗主義が歴史の必然であるからです。苦い杯ではあるが、イスラミストにとっては耐え難い苦さでしょうが、飲まなければなりません。
全体的にみると、世界はグローバル化にあり、世界の原理主義は縮少しつつあります。21世紀はアラブ世界のグローバル化の世紀です。
今日みられるテロ犯罪は、死を前にした原理主義の死闘であり、アラブ世界が世俗化の波に洗われている証拠です。1928年にムスリム同胞団が設立され、以来今日に至る80年の間に、彼等は念願の神政国家をつくることができませんでした例外はガザです。しかし、あの無残な体たらくはどうです。ガザを見る世界の目はどうです。
更にいえばアラブ世界は、相当に世俗化しているのです、犯罪に対するシャリア上の刑罰は、原理主義者達が鳴物入りで大騒ぎしますが、20ヶ国を越えるアラブ諸国のなかで、強制施行されているのは1ヶ国だけです。アラブ世界でベールをかぶる女性は10%を越えません。4人の妻を持つ男性は5%を越えません。 アラブ世界の大半は、湾岸諸国すらも、男女平等です。我々が望むような完全な平等ではないかも知れない。まだそこに到達していないとしても、建前上は既にそうなっています。例外の1ヶ国は、宗教上歴史上そして政治上の事情から、女性が一定の線を越えてはならない…。
・民主主義なき世俗主義は可能だが、世俗主義がなければ民主主義は成り立たない
アラブ世界では、世俗化しているが民主的ではない国がいくつもあります。従って、その世俗主義は、金メッキの指輪と同じで、まがいものです。いかさまであるのは、表面をひっかいてみると判ります。すぐ地肌が現れます。民主的でなくても、独裁且つ世俗的システムのもとで、工業化、科学的近代化は可能です。ナポレオン3世時代のフランス、ファシスト時代のイタリア、ナチドイツ、スターリン主義下のロシアがその例です。宗教に敵意を抱く世俗の独裁制をつくることもできる。メキシコ、ソ連キューバがそうです。(民主々義がなくても世俗主義はあり得る)しかし世俗主義がなければ民主々義は成り立ちません。
・世界唯一の神政国家(イラン)は鉄拳、銃そして抑圧で人民を支配する
インタビュー記者:記事のなかで、「世界は既に世俗化したのであり、この世俗世界のなかで神政主義政権は統治できず、支配的な力になることもできない」と書いておられる。神政国家がいくつもあり、原理主義組織が選挙で権力を握ることもできる。この事実を考える時、世界は世俗化の方向へ動いていると、どうして言えるのですか。
ナブルシ:神政国家は世界に只一つ、イランだけです。しかしこの神政国家は、鉄拳と銃と抑圧で人民を支配しています。イランの宗教革命防衛隊(パスダラン)がイランの本当の支配者です。ロンドンの国際戦略研究所の推定によると、その兵力は35万。イラン人民を抑圧すること甚だしく、人民は麻薬に逃避するのです。左様。世界最大の大麻と阿片消費国がイランです。革命防衛隊に代表される神政国家の抑圧と不法行為が如何に大規模か。中毒患者の数が物語っています。
国連の発表した「世界麻薬報告」(World Drug Report 2005)によると、イランは人口比で世界一の中毒患者国です。満15歳以上の住民の2.8%が、薬物の中毒者なのです。2%を越えるところは、あと2ヶ国しかありません。モーリシャスキルギスタンだけです。
イランの人口は7000万であるから、中毒者の数は割り出せますが、イランの政府高官のなかには、中毒者の数は400万に達し、ヘロインを含む麻薬中毒者の数は世界一と信じている人達がいます。これが、宗教テロリストがコピーしようとする神政国家の現実です。
・仰天の礼拝、性的放縦、麻薬中毒の実態統計を発表したテヘラン文化局長
宗教問題に話題を変えましょう。テヘラン市の文化局長アリ・ザム(Sheikh Mohammad Ali Zam)が、学生、若者を含む国民の宗教礼拝、戒律順守データを最近発表しました。礼拝、性的放縦、麻薬常習に関する統計をみて、イラン・イスラム共和国の外にいるイスラミストを含む人々が、仰天したのです。まさに呆然自失の体になりました。これは、21世紀におけるイスラムの動向に深刻な懸念を引き起しています。今後の統治プログラムと戦略計画の見直しをせまられているのです…。イランで権力の座についた聖職者達は、イスラム化を継続し、腐敗、堕落、非行の根源を断つことになっています。しかし、イランの文化担当者が、行政の透明性と自己批判に先鞭をつける記者会見で、先の統計を公表したわけですが、イラン国民の過半数が、特に若者が宗教離れを起こし、戒律順守が下降線を描いているのです…。
イスラム神政国家政府は新聞、ラジオ、テレビを支配しています。その政府が牛耳る社会には聖職者が50万人もいます。総がかりで清めるはずなのに、先の数字はまことに驚くばかりです。
イスラム政府が、小学校を初め生徒達に宗教々育を施してきたにも拘わらず、20年に及ぶこの実験は見るも無残な結果に終わっています。青少年の宗教離れをひき起したのです。それも半端な程度ではありません…イスラム共和国は放棄モスクを売りだす最初のイスラム国になるでしょう。これ位大きい破綻がほかにあるでしょうか。
1979年のホメイニ革命時、反革命派に透徹した論理的思考力があったならば、この革命は偽装革命であると判断したことでしょうヘーゲルの歴史哲学の原則を適用し、近代への移行の橋渡しとして伝統的原理主義イスラムを打倒する。革命はそのための欺瞞行動、と考えた筈です…。
・神政政権は世俗政権へ移行するための前提条件
インタビュー記者:イスラム諸国の将来はどうなるのでしょう。あなたが言っておられる「世俗化の波」をうまく乗りきれるのでしょうか。
ナブルシ:その質問には既に答えています。イランとガザに存在する神政政権は、世俗政権への移行実現のための一条件です…我々は、世俗国家へ到達するための、神政段階を通らなければなりません。私は、エジプトその他の地域でムスリム同胞団が支配してくれることを、心待ちにしています。連中がつくる神政国家を乗り越えて、世俗国家へ向かうことができますから、これがなければ、望ましい結果はだせません。
原理主義は思想に思想を以て対応できず、銃弾で対抗するだけ
インタビュー記者:あなたを批判する人達がいます。激しい批判の言葉を投げつけるのです。度を越している場合もあります。この批判はライバル意識から生じたのでしょうか。それとも、世俗思想を向うにまわした反対闘争から生まれたのでしょうか。
ナブルシ:あなたが「激しい」と考える批判は、原理主義の悪からすれば、かわいいものです。我々の前の時代のリベラル派に投げつけられた罵詈雑言に比べたら、私に対する批判は毒気が少ない。原理主義者達がリベラル派人士に何を言ったか、何をしたか。フセイン(Taha Hussein)、サアリビ(Abdulaziz Al-Tha'alibi、チュニス民族主義運動の創始者)、ファハミー(Mansour Fahmi)、ラッザク(Ali 'Abd Al-Razzaq)、ハリド(Khalid Muhammad Khalid)、フォダ(Farag Foda)、マルワ(Hussein Marwa)、アントゥン(Farah Antoun)等の受難を考えて下さい。
トゥラビ(Hassan Turabi)指導下のスーダン原理主語者達は、“献身の指揮官”ヌメイリ(Gaafa Al-Nimeiri、大統領)時代にあたる1992年、イスラム思想家ターハ(Mahmoud Muhammad Taha)を処刑しました。本人が神政国家出現の可能性を否定したからです。同じ1992年エジプトで「隠れた真実」の著者フォダ(前出)を原理主義者が殺しました。カイロ国際図書見本市で開催されたイマラ(Muhammad Imara)との論争において、神政国家の可能性を否定したからです。エジプトの原理主義者達は、1994年にマーフゥズ(Naguib Mahfouz)を殺そうとしましたし、最近ではサウジの原理主義者達が、サウジのリベラル派作家オタイビ(Abdullah bin Bjad Al-Otaibi)とハイル(Yousuf Aba Al-Khail)を破門し、裁判にかけることを求めました。事例にはこと欠きません。原理主義者達はいいがかりをつけ、罵詈雑言を浴びせ、悪態をつく。
実際には、この一連の非難攻撃は、原理主義の破綻の結果なのです。彼等は思想に対して思想を以て張り合うことができず、現代思想の現実に全く無知であり、その結果悪態しかつけないのです。
アラブ世界には、東西の思想家に対抗できる聖職者或いは宗教思想家はひとりもいませんチュニジアの思想家ラクダル(Lafif Lakhadar)がチュニジアのナフダーイスラム運動事務総長ガーヌシ(Sheikh Rashed Al-Ghanushi)に挑戦状をつきつけ、衛星テレビでの公開討論や大学のセミナー室での論争を呼びかけました。しかし、事務総長は拒否しました。原理主義思想の皮相性とナンセンスな内容が露呈することを恐れたからです。思想に対して思想を以て答えられないことを知っているからです。彼等は、思想に対して銃と爆薬ベルト、マスクを通した威嚇の言葉と鞭打ちでしか答えられません。ナイフ、自動車爆弾、呪詛、異端宣言、無神論呼ばわりでしか対応できないのです。これこそ信仰心の欠如そのものではありませんか。
(引用終)